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広安門事件報告 1937年07月26日

 広安門事件報告(一部新字体化)


     廣安門事件報告

  昭和十二年七月廿六日  天津軍司令部附

步兵少佐 櫻井德太郎

一、事件前の狀況

七月廿六日朝北平居留民保護の目的を以て步兵第二聯隊第二大隊(缺一中隊)豊台より入城すとの來電により中島顧問は齋藤通訳を伴ひ連絡に向ふ午后四時頃廣安門より入城すとの事なりしを以て過早に支那側に通知せば却つて警戒心を増加し入城不能の怖れあるを以て秦德純秘書張我軍に午后三時半までに特務機關に来る可きを電話せしも遂に時刻に至るも來らず此頃松井特務機關長は昨日の廊坊事件に関し軍の最後的通牒を進徳社にある宋哲元に手交の為赴きありし留守中なりしを以て、櫻井顧問は三時五十分特務機關囑託川村芳男及憲兵を同伴し廣安門に至る

此時齋藤通訳連絡に来りあり兼ねて面識ある第三十七師王連長に交渉し戒厳司令部、劉自珍旅長に電話し開門に決す、依て斎藤をして此の状況を連絡せしめんとせし時、白き便服を着したる長身の者秦市長に電話し再び連長を電話口に呼び出し秦市長命令と称し閉門し城塞上の兵戦闘準備を行ひしを以て、斎藤をして豊台より来れる部隊に連絡せしむると共に顧問は戒厳司令部に至りしに劉旅長、徐参謀長、共に進徳社に赴き不在なりしを以て一旦特務機関に帰り開門の件を交渉す

午後五時半頃冀察側より開門の件電話し来り門の通過に関し宋哲元秘書、張祖徳及外交委員会委員林耕宇を立会せしむる旨通知し来りしを以て櫻井顧問は再び川村囑託、吉富特務機関員を伴ひ廣安門に至る。

二、事件の状況

其の一 先頭部隊城門直後に至るまでの状況

櫻井顧問は広安門内警察分駐所に於て王連長に面会し冀察側より巳に開門に関する命令ありたる旨を知り連長を伴ひ城壁上に登り兵に対し日本軍の入城に際し絶対に射撃す可からざる旨を徹底し銃を手より放し隠蔽休憩せしめ城門外にありし巡警をして中島顧問に連絡せしむ(中島顧問は城門西方二百米鉄道踏切石炭所に位置す)

暫らくありて、斎藤通訳自動車より城門外に至り連絡成る。此の時張秘書来りしを以て念の為め連長をして誤解なき様兵に伝へしめ門を半開す

此の時吉富は城門下に斎藤は城門外橋梁附近に櫻井顧問川村及張は城門上楼門北側にあり、午後六時過ぎ「我自動車隊は中島顧問の自動車を先頭に前進し来り、将に城門に入らんとするや俄然城門南方五十米附近城壁上より二三発、発砲す、城門上の兵之に倣ひ無断射撃を開始す、因て顧問は川村と共に直ちに楼門北側の軽機に射撃せざる事を厳命し、城門南側より道路上を縦射中の軽機の射撃を中止せしめ王連長を伴ひ東側楼門及城壁上の兵(一三二師)に対し射撃禁止を命ず、此の時我先頭約十車輌已に城門を通過し東側の楼門上より射撃及手榴弾の投擲止まず場外の我車輌部隊主力は停止し下車を始めたるを目撃す極力射撃中止を嚴命せし結果城壁上の射撃を中止せしむるを得たり

因つて直ちに張秘書をして宋哲元に連絡せしむ、顧問及川村は連長を擁し城壁上の兵に對し「張秘書宋委員長に連絡す、爾後絕對に射撃す可からず」と嚴命す 。

其の二 城壁内外の日本軍の攻撃開始より以降脱出に至るまでの狀況

午后七時前に於ては若干射撃するものありしも之を中止せしめ得たり。午后七時過城内外の我軍行動するに及び再び城壁上より両方面の我軍に對し射撃を開始す。此の間東樓門北側附近に二三名の損害を生じ激昂せし兵は日本人を殺せと叫び顧問及川村に逼る、顧問は連長を捉へ猶ほ彼等を抑止せんとせしも力及ばず、先づ百卅二師の兵約十米の距離より發砲す、此時西樓門北側の軽機顧問を射撃せんとせしを川村之を妨碍し已に数弾を受けたるが如く西樓門方向より五六名青龍刀及拳銃を擬し迫る、此の時東樓門方面よりも十数名前進し來り一弾顧問の左足に命中せしを以て已むを得ず連長と格闘し之を突きたほしたる瞬■■間身を躍らし城壁内庭(東楼西楼中間の北側)に飛び降りコンクリート製屋根上に右足をつき屋根より墜落右肩より接地す

此の時城壁上より射撃及手榴弾投擲を受けしを以て死角を求め物置中に入る此頃城壁上の射撃盛んにして我軍城内外より攻撃中なるものと判断す敵兵は城門の中間区域には一兵も存せず戦闘中は顧問を捜索の為め城壁上より下り来らざるを信ぜしも万一を慮り棒及煉瓦を準備す

銃声断続せしも日没と共に一時静寂に帰す、夜間時々銃声あり

日本軍猶城内外より攻撃中なる為か或は恐怖せる支那兵の乱射せるものか不明なり

運を点に委せ休憩すること数時間、午前三時頃顧問の名を呼び捜索に来れる面識ある巡警に助けられ広安門警察分局に至り捜索に来れる、周参謀に会し午前四時頃特務機関に帰り陸軍病院に入院す

三、我軍と交戦せし敵の兵力

事件当時、広安門にありし敵は第三十七師王連長の指揮する約六十名と之と交替の爲派遣せられし第百卅二師の約六十名にして三十七師は西方楼門西方に百卅二師は東方楼門及城壁に位置せり

終り

松井大佐殿

(図省略)

(国立公文書館:広安門事件報告 櫻井徳太郎 C11111700400)

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