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(第二次)門戸開放通牒 1900年07月03日

 門戸開放通牒(原文、和訳、Sourceと未照合)


The Second Open Door Note (Hay's Circular Letter, July 3, 1900)


In this critical posture of affairs in China it is deemed appropriate to define the attitude of the United States as far as present circumstances permit this to be done. We adhere to the policy initiated by us in 1857, of peace with the Chinese nation, of furtherance of lawful commerce, and of protection of lives and property of our citizens by all means guaranteed under extraterritorial treaty rights and by the law of nations. If wrong be done to our citizens we propose to hold the responsible authors to the uttermost accountability. We regard the condition at Pekin as one of virtual anarchy, whereby power and responsibility are practically devolved upon the local provincial authorities. So long as they are not in overt collusion with rebellion and use their power to protect foreign life and property we regard them as representing the Chinese people, with whom we seek to remain in peace and friendship.


The purpose of the President is, as it has been heretofore, to act concurrently with the other powers, first, in opening up communication with Pekin and rescuing the American officials, missionaries, and other Americans who are in danger; secondly, in affording all possible protection everywhere in China to American life and property; thirdly, in guarding and protecting all legitimate American interests; and fourthly, in aiding to prevent a spread of the disorders to the other provinces of the Empire and a recurrence of such disasters.


It is, of course, too early to forecast the means of attaining this last result; but the policy of the Government of the United States is to seek a solution which may bring about permanent safety and peace to China, preserve Chinese territorial and administrative entity, protect all rights guaranteed to friendly powers by treaty and international law, and safeguard for the world the principle of equal and impartial trade with all parts of the Chinese Empire.

(Source:https://worldjpn.net/documents/texts/pw/19000703.O1E.html)


和訳


(第二次)門戸開放通牒


中国情勢がこのような危機的状況にある中、現状が許す限り、米国の態度を明確にすることが適切と考える。我々は1857年に開始した政策、すなわち中華民族との平和、合法的な通商の促進、そして治外法権条約上の権利及び国際法によって保証されるあらゆる手段による米国市民の生命と財産の保護を堅持する。我が国民に不当な行為がなされた場合、我々は責任ある者に対し最大限の責任追及を行う所存である。北京の状況は事実上の無政府状態とみなし、権力と責任は実質的に地方の省当局に移譲されている。彼らが反乱勢力と公然と結託せず、外国人の生命と財産を保護するために権力を行使する限り、我々は彼らを中国国民を代表する者とみなし、平和と友好関係を維持する所存である。

大統領の目的は、これまでと同様に、他の諸勢力と協調して行動することにある。第一に、北京との連絡を再開し、危険に晒されている米国政府関係者、宣教師、その他の米国人を救出すること。第二に、中国全土において米国人の生命と財産に対し可能な限りの保護を提供すること。第三に、正当な米国人の利益をすべて守り保護すること。第四に、混乱が帝国の他の省へ拡大し、同様の災害が再発するのを防ぐことに協力することである。

この最終結果を達成する手段を予測するには、もちろん時期尚早である。しかし、アメリカ合衆国政府の方針は、中国に恒久的な安全と平和をもたらし、中国の領土及び行政上の統一性を維持し、友好国が条約及び国際法によって保証されている全ての権利を保護し、そして世界に対して、中国帝国のあらゆる地域との平等かつ公平な貿易の原則を保障するような解決策を模索することにある。

(deepl.comによる和訳)

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