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全支排日運動の根源と其史的観察 1932年02月26日

 全支排日運動の根源と其史的観察(ひらがな化、一部新字体化、一部省略、附表省略)


全支排日運動の根源と其史的観察

     目次

一 緒言

二 現代支那の指導原理と排外運動

 1 三民主義

 2 国民党の主義及対外政綱

三 排外特に排日運動の教育竝訓練

 1 排外特に排日教育

 2 排外民衆運勤の訓練

四 排日運動の歷史

 1 明治四十一年辰丸事件後の排日運動

 2 明治四十二年安奉線問題後の排日運動

 3 大正四年二十一箇条問題後の排日運動

 4 大正八年「五四運動」

 5 大正十二年旅大回収運動に伴ふ排日運動

 6 大正十四年「五卅運動」

 7 大正十四、五年郭松齢事件に関する満洲増兵後の排日運動

 8 昭和二年第一次山東出兵後の排日運動

 9 昭和三年第二次山東出兵後の排日運動

 10 昭和六年朝鮮事件後の排日運動

 11 昭和六年満洲事変後の排日運動

五 排日運動に関する観察

 1 排日運動の根柢は深い

 2 排日運動は国策遂行の手段

 3 排日運動の動機には不純なる点が少くない

 4 排日は一種の職業化した

 5 排日運動継続期間

 6 排日の深刻化と在留邦人

 7 排日と第三国の利用

 8 排日運動の中心地方は支那本部特に長江流域である

 9 共産思想の動きを注意せねばならぬ

 10 支那は法治国たるの資格がない

 11 排日運動は皇軍威力の発揮せられたる地には少い

 12 排日の影響

 13 排日停止は日支交涉開始の根本条件

 附録 支那の対日不法行為一覧

全支排日運動の根源と其史的観察

     一 緒言

支那の排外思想は別に昨今始めて起つたものではなく、昔から外国人を賤視した東夷南蛮流の思想にして、辛亥革命後特に濃厚になつた、即ち孫文が日清戦争当時布哇に「興中会」なる秘密結社を起した際、「我が中国は阿片戦争以来外国の圧迫を蒙つている、此圧迫から免れるには対外的に無力な満洲朝廷を倒さねばならぬ」と、倒満排外といふ指導原理を採用して以来、更に面目を一新して来たのである、而して此排外の最終目的は外国と対等の地位にまで支那を昂揚し、次で支那が世界に覇権を振はんとする、所謂中華的思想が基調をなしているのであるから、辛亥革命に依りて倒満興漢の第一目的を達成した後には、彼等の政策は単に排外に局限せられる訳で、現在に於ては一意此目的に向て邁進している次第である。而して支那の排外の目標は欧洲大戦後露独の勢力が一掃せられたので、支那と交渉最も深き日英に選定せられたが、排英成功後は其鋭鋒は専ら日本に指向せらるゝに至つた。

其対日政策は排日から侮日、抗日、挑戦行為と進展し、感情的から理智的に、非組織的から組織的に、局地的から全国的の運動となり、国民党の指導によりて国家的の背景を持つものとなつた。

此等の排日行為に対して日本が如何に対応すべきかは問題であるが、単なる外交的辞令を交換しても、又日本が多少の譲歩をなしても、結局収りのつかぬことは今日迄の歷史に見るも明であつて、国民党現出前の消極的排日時代ならば、日本の譲歩が多少の效果を斉したかも知れぬが、今日では彼等の排外は積極的攻勢に出ているのであるから、日本の譲歩は徒らに彼等に望蜀の念を強からしむるに止り決して排日防止の効果はない、従て此急迫せる情勢を改善すべき方法は、支那が不法なる排日政策を改むるか、それとも日本が支那の橫車の前に叩頭するかの二つである。然して如何に支那の国民的要求に同情するものでも、支那の現状に於ては其要求の全部を鵜呑にすることは出来ないから、不法なる排日侮日挑戦の行為を敢てする支那側に反省を求め、両国をして正常なる外交の軌道に引戻すことは東亜永遠の平和を確保する為に喫緊なる事と信ずる。

以下排日運動の根柢をなす現代支那の政治指導の原理と排外教育訓練を温ね、次で排日運動の歷史を眺めて其特性を観察し、排日問題再認識の一助に資したい。

     二 現代支那の指導原理と排外運動

日支関係を悪化し排日抗日の原因たるものは、支那の対外政策の金看板たる国権回復の思想であるから、現代に於ける支那政治の指導原理たる孫文の三民主義及国民党の政綱の一部を紹介する。

 1 三民主義

三民主義は孫文の革命理論の根源をなすもので、五権憲法と共に民国革命の標語であり行進曲である、国民革命に対する彼の信念と理想と抱負とは凡てこの中に凝結されている。

三民主義は民族主義、民権主義、民生主義の三部門に分れているが、玆では排外運動と最も関係深き、民族主義に就て簡単に説明する。

民族主義とは民族革命の指導原理である、支那民族の独立に関する実行方法を述べたるもので、対内的と対外的の両方面における民族解放を高調している。

即ち対内的には国内に於ける諸民族は政治、経済、社会的に平等無差別の権利を享受して結合し、其独立した支那民族の団結の力で、世界列強と肩を竝べることの出来る中華民国の基礎を固めねばならないとして、国人の覚醒を促している。次に対外的の主張は支那民族自体の解放運動であつて、列強帝国主義の束縛と圧迫によりて、半植民地同様の苦悩に陥つている支那の国土と民族の解放運動を達成し、一切の外力の不合理な圧制を排除すべしとの主張である。此民族意識を喚起するためには「帝国主義打倒」「不平等条約撤廃」の二つの標語を使用している。

而して彼等は『民族主義は如何なる階級に対するを問はず、其目的とする処は一に帝国主義の侵略を除去するにある、例へば実業界に民族主義がなければ、列強経済の圧迫を蒙り自国の産業は永遠に発達することは出来ぬ、又労働界に民族主義がなかつたならば、無智なる労働者は忽ち帝国主義に追随し、現在の軍閥及内外の資本家は、我等の血肉を蝕して尙飽くことを知らないだらう。故に民族解放の争闘は多数民衆の為に行ふのであつて、其目標は一に反帝国主義に外ならない』と説いているのである。

2 国民党の主義及対外政綱

国民党の主義は孫文提唱の三民主義で、救国の途は之を措いて外にないとしている、従て三民主義五権憲法に基きて中華民国を建設し、第一民生を謀り、次に民権を定め、更に民族主義を実行し、同時に各国との条約を修正して、国際平等国家の独立を確立することを其政綱としている、其の対外政策として挙ぐる所は次の通りである。

     国民党の政綱中対外政策    (民国十三年一月十日公表)

(イ) 一切の不平等条約例へば領事裁判権、外国人の関税管理権、及外国の支那国内に於ける一切の政治的権力にして支那の主権を侵害するものは皆之を取消し新に双方平等の条約を締結すること

(ロ) 自ら一切の特権を放棄せんとする国家及支那の主権を侵害する条約を廃止せんとする国家に対し支那は之を最惠国と認むること、露国に対し特別待遇を与ふ

(ハ) 支那と列強との間に締結せる条約にして支那の利益を侵害するものは之を改訂すること

(ニ) 外債は支那が政治上実業上損失を受けざる範囲内に於て保証し速に償還すること

(ホ) 支那国内に於ける責任を負はざる政府即ち賄選に依る総統の下に在る北京政府の如きものゝ借りたる外債に対して支那国人民は償還の責任を負はざること

(ヘ) 各省実業団体を召集して会議を組織し外債償還の方法を籌備すること

陳公博(左翼国民党員)の公表した政治革新理論及方策の第四外交問題、第五軍事問題中には、排日抗日運動の根拠を研究するに於て參考とすべきものがあるから左に摘記する。

欧洲戦争を境として各国の対中国関係は断然異なつて来た、従前は実力を以て中国を支配したものに、英、独、仏、米、日、露があつたが、今日中国革命に影響を与へ得るものは僅に、英、米、日、露の四箇国あるのみである。而して英国は屠殺政策に失敗して以来、中国に対する進攻策略は已に軟化策略となつてしまつた。米国は毎年七千万元の輸入関係があるのみであるから、其門戸開放政策を維持する外態度は比較的温和である。独り日本のみは中国革命を致命傷と看做している。何となれば中国々民革命が成功すれば、独り東三省、山東に於ける既得権を失ふのみならず、朝鮮、台湾の独立はもとより、延いては皇室――国体の変革が問題となり、経済的生存までも疑問になつてしまふ。ソウエート連邦に至つては、コミテルンの東方政策の関係から、中国共産党を利用し中国の政権を奪取し、ボルセエビキの勢威を助長せんことを日として思はざるはない。故に日露の政策は強硬であり、英米のそれは軟弱の状態となつている。(中略)

而して吾々目前の帝国主義的対象は第一が日本、第二が英国である。故に吾々は先づ当然日本に向つて進攻し、英国に対しては防禦的立場を取り、米国をして中立せしめ、絶対に共産主義を宣伝せざることを条件として、反帝国主義戦線上に於て露国との国交を回復しなければならぬ。

之を要するに帝国主義は決然として、中国々民革命の成功を妨害せんとし、コミンテルンは共産党をして政権を奪取せしめんが為に、同様中国革命の成功を妨害せんとしている。吾人は中国革命と国民党の生存を保障せんが為に、必ず三民主義的新インターナシヨナルを建設しなければならぬ。外交は平時的戦争にして新インターナシヨナルの建設こそ革命の基礎たるものである。最後に吾人の要求する所のものを挙ぐれば、

A 最短期間内に被圧迫民族の新インターナシヨナルを成立せしむること

B 欧米に於ける一切の被圧迫階級との連合

で、あると述べて居る。

尙又其第五項軍事問題の末尾に於て次の如く説明せられている。

最後に吾々は対外軍事方略を整理決定する必要を認める。凡そ一国の国防は必ず其対象がなければならぬ。現在南京の軍事には何等の対象がない。

編遣会議が概括して六個の編遺区に画されて、唯分臟をのみ対象として、国防的対象の絶無なるは此故である。

吾々は日本帝国主義を国防の対象と確認する。日本帝国主義を倒さずんば革命は終に成功する事が出来ない。故に吾々は次の諸項の決定を必要とする。

A 黃河以北は軍事的攻擊の姿勢を採り、黃河以南は軍事的防禦の姿勢を採る。北より南に、而して東より西にを原則とする。

B 防禦的区域は(A)の原則に基いて、東三省、河北、山東、江蘇、浙江、福建、廣東を重視し、其余の各省は唯第二及第三防禦線としての準備をなすべきである。

C 海岸線の防禦は十年以内に於ては、時間及経済上の関係上、軍艦の建造などはとても出来ないから、潜航艇及飛行機の建造に注意を向けねばならぬ。

之を要するに支那人の排外賤外の思想は、有史以来支那民族の心裡に深刻に印象せられて居るので、決して一朝一夕に解消し得らるゝものではなく、而も支那政治の指導理論が前述の如くであるので、排外排日思想は極めて濃厚であつて、排日の根柢の頗る深いことが理解せられる、世には日支通商条約を絶対平等にし、治外法権を撤廃し、関税自主を認め、沿岸内河の航行権放棄等を支那側の言ふが儘に聴従すれば、直に日支親善が出来ると手軽に考へて居るものもあるが、支那人の心奥に流るゝ思想が此通りであり、国民党の指導原理があの通りであるから、国民党が其方針を改めざる限り排日の停止は甚だ困難であると見ねばならぬ。

     三 排外運動の教育竝訓練

国民党は其排外運動の達成は国民の教育訓練に俟たざるべからずとし、之に至大の努力を傾けている、其手段は千態万様であるが、主なるものは学校其他団体の排日教育及排外民衆運動の訓練である。

其概要を挙ぐれば次の通りである。

 1 排外特に排日教育

  (イ) 排外排日教育の重視

三民主義革命以降国民党は三民主義を国民に注入するを以て、党強化の捷径なりとなし、其政治教育に於て民族主義に基く国権快復の思想の注入に努めたので、支那国民精神教育の目標は切実且具体的となり、国民党の長江流域進出と共に国権快復の思想は天下を風靡し、排英に成功するや其銳鋒は專ら日本に指向せられ、当局者は排外特に排日教育を益、高調するので、純真なるべき青少年の脳裏は対日反感を以て満さるゝに至つた。

  (ロ) 排外排日教育の内容

支那各地の学校は政府の指令に基きて三民主義及党化教育を施しているが、其使用する教科書中には不平等条約撤廃、帝国主義打倒及利権回収等の排外的思想鼓吹の材料を巧に按配編入してある、而して其排外記事中の大部分は排日記事であるが、内客の重点を武力的政治的侵略、経済的侵略、人口増加に依る圧迫、文化的侵略に置いている。

武力的政治的侵略

不平等条約撤廃を要求し、馬関条約の不当、義和団事件、大正四年日支交渉を攻擊し、之に因んで琉球、台湾、朝鮮等の快復、関東租借地の返還を主張し、五四(北京事件)、五九(二十一箇条承認)、五卅(上海事件)等を重要なる国恥記念日とし、満蒙進出の阻止を論じ、済南事件の非を鳴し、領事裁判権の撤廃を迫つて居る。

経済的侵略

経済的侵略は武力侵略の後に来り、而も更に恐るべきものなりとし、関税自主を力説し投資借款、租界の課税、航空権、郵政権の失当、鉄道、鉱山、紡績事業等の特種営業による支那の蒙る損害の甚大なるを説き、此対抗策は対日経済絶交にありとして日貨排斥、国貨使用を提唱して居る。

人口増加に依る圧迫

日本は其国土の狭小と人口増加を緩和せんが為侵略を行ふものであるとし、日本の満蒙、山東への進出を非難し、朝鮮、台湾等に同情を表し彼等を煽動して弱小民族の一致団結を促して居る。

文化的侵略

支那は外国が支那に来りて教育伝道等に従事するは中国人の思想を誤らしむるもので、彼等は名を教育に藉りて帝国主義的勢力の扶植を企てるものであるから、之を支那の手に回収すべしと謂ふて居る。従て日本の対支文化事業を文化侵略として其不法を攻擊している。

此等の記事中特に注意すべきは、彼等は自己に都合よき場合には歷史上の因果関係を肯定し、然らざる場合には之を否定し、又故らに史実を曲筆して、自己の罪科は全く之を説かず、只外国の迫害のみを児童に教へ込みて、対日反感の煽動に力めているから、斯かる教育を受けた児童の成人後に於ける彼我国交に想到せば、真に戦慄を禁じ得ないものがある。

 3 排外民衆運動の訓練

前項の排日教育の外、学校記念日其他の学生集会時に於て教職員学生等の演説を行ひ、又党部よりは宣伝員を特派して排外貨又は外国人経営工場等の罷業を煽動し、又宣伝員を中心とする工人団体を作り職工等の排外気運を醸成し、軍隊中にも党部代表を配置し、主として三民主義による軍隊の政治教育に任ぜしめ以て軍隊の排外熱を煽動して居る。

排外訓練の手段として別に国恥記念日を挙げることが出来る。此種記念日は其数甚だ多く一般国際日と同様一切の国民をして遵守せしめ、従来民国に於て起りたる外支衝突事件等を永く国民の脳裏に刻み込み、其偏狭なる愛国心を鼓舞し以て排外思想を刺戟せんとしている。

而して此等の記念日当日には、隨所に事件を誇張し理否を顚倒したる排外的集会、演説会開かれ、学生労働者其他の参加に依る大示威運動を為し、各所に排外伝単を貼付し排外熱を煽てゝいる。

今此等記念日の重なるものを挙ぐれば次の通りである。

一三記念日    一九二七年漢口英国租界強制回収日

五三記念日    一九二八年済南事件

五四記念日    一九一九年北平学生運動

五九記念日    一九一五年二十一箇条承認

五卅記念日    一九二五年上海外支衝突事件

沙基惨案記念日  一九二五年廣東英支事件

万縣惨案記念日  一九二五年万縣英支衝突

辛丑国恥記念日  一九〇一年拳匪事件

     三 排日運動の歷史

由来支那人は強剛なるものには羊の如く従順に、弱者に対しては暴君の如く強き国民性を有して居る、日貨排斥の如きたしかに斯かる国民性の片鱗であると見ることが出来る、即ち支那側では「日本には原料少く、之を支那に仰がねばならぬと同時に、製品の販路も亦支那に求めねば立つ瀬がない」といふ風に、日本の弱点を見透した様な考へから日貨排斥をやつて居るのである。彼等は「日本の対支貿易は、日本対外貿易の大部分を占め、日本の経済的生命の大半が中国に繫る」との一人極めの前提と、「若し支那が日本に対し経済絶交をなせば、日本は経済的恐慌を惹起し自滅するに至るべし」との、莫迦々々しい観測を根柢として日本を屈服せしむるには軍艦も大砲も無用である、挙国一致の排日貨さへやれば沢山であると考へて居る。但一九三〇年の統計によれば、日本の対外貿易中対支貿易の比率は僅に二割余(中国よりすれば四割)にして、右の如き前提の誤れるは今更言ふ迄もない。

而して此日貨排斥は明治四十一年三月(一九〇八年)の辰丸事件を嚆矢として、今日迄既に二十四年の歷史を有して居るが、其動機は常に二十一箇条とか日本の出兵問題と云ふ様な、政治外交問題を契機として起つたもので、戦争によらざる国策遂行の一手段たることを認めることが出来る。

其画期的なるものを年代順に概説すれば次の通りであつて、次第に運動の方法は進步し大規模となつていることを認めることが出来る。

1 明治四十一年辰丸事件後の排日運動

明治四十一年(一九〇八年)二月五日、日本汽船辰丸号は廣東に於て、武器密輸入の嫌疑を以て、支那砲艦に拿捕され積載品を押収せられたので、日本側は厳重交涉の結果、五箇条の謝罪条件を以て解決した。

然るに本事件に於ける日本側の態度、竝支那外交部の無能に対し、廣東を中心として全支的排日運動開始せられ、日貨排斥を実行した、之がため我が対支貿易に影響する所甚大であつた。而して此運動は明治四十一年三月から同年十一月まで約半歲に亘つて行はれた。

2 明治四十二年安奉線問題後の排日運動

明治四十二年(一九〇九年)八月六日、日本は北京条約に基き安奉線の改築を通告し支那側は遂に其要求を承認し細目五項を協定するや、此宣言を端緒として留日支那学生中心となり、東三省を中心とする排日大運動開始せられ、延いて北支那学界を動かし、官吏亦之に雷同し全支的排日と化した。日本は之に対し厳重なる抗議を満洲総督に致し、満洲総督は日貨排斥禁止令を告示したので、其結果八月より続いた此運動も十月に至り終熄するに至つた。

3 大正四年二十一箇条問題後の排日運動

大正四年(一九一五年民国四年)五月二十五日、南満洲及東部内蒙古に関する日支新条約(所謂日支交渉二十一箇条々約)が締結せられた。

然るに此日支交渉に於ける日本の態度に対し、中南部を通じて反対運動行はれ、特に南方政府の北方政府攻擊の材料に利用せられ、慢性的排日運動化するに至り、大正四年二月から九月迄継続した。

4 大正八年「五四運動」

大正八年(一九一九年民国八年)一月巴里平和会議に於て、民国委員は米国の支持を得て膠州湾租借地、山東鉄道其他の独逸の利権を、直接巴里会議から還附して貰いたいとの要求をなしたが、四月三十日の会議で日本の希望通り山東に関する処分は日支の直接交涉に由ることになつた。其容れられざるの報支那に伝はるや、段内閣及新交通系の親日行為に対する反対運動と相交錯して、猛烈なる排日運動が開始せられた。

北京に於ては五月四日数千の学生排日団は、親日派の巨頭と目された曹汝霖邸を襲擊し、日貨は山の如く積んで焼却する等の騷となり、北京から、上海、廣東と全国的の排日運動となり、五九記念日に於て各地の排日気勢は最も猛烈となつた、次で六月に至り親日派の曹汝霖以下の免官に依り稍〻緩和せれたが、七月支那全権の平和条約拒絶問題に依り更に蒸し返され、大正九年四月迄約一年継続した。

此運動により学生起たば何事か出来ざらんの自信を得て、学生の鼻息は頗る荒くなつた。彼等は之を愛国運動、一名文化運動と称し、而も此五四運動の背後には某々国の宣教師の援助もあり、又他の列強は排日を見て却て喜んだので、支那に対する列国外交の均勢は全く失はれ、支那の排日は愈〻深刻化して来た。

尙この運動突発以来、支那の国際的地位の現実暴露に対する不安と焦躁が高まつて来て、政治革新竝社会改造に関する議論が喧しく湧き立ち、一般的排外運動の気運へ進んで行つた。

5 大正十二年旅大回収運動に伴ふ排日運動

大正十年(民国十年一九二一年)十一月十二日より開催せられた華盛頓会議に於て、関東州及南満洲鉄道の租借権は確認されたが、我が国は満洲に於ける優先権を放棄し、大正十一年一月三十日には山東還附条約に調印した。斯かる日本の最大限度の譲歩は、却て支那人の対日軽侮心を増大し、自由平等思想の浸潤と共に益〻排日運動を盛にした。即ち大正十一年八月十七日黎大総統が旅大回収に関する声明をなすや、各地に於ける旅大回収熱勃然として起り、十一月一日国会は「二十一箇条無効」を可決して政府に其回収を要求した。次で大正十二年(一九二三年)三月十日、北京政府は正式に日本に対し「旅大回収」を要求したが、勿論三月十四日日本は之を拒絶したので、全国的排日運動勃発し、「対日経済絶交」なる新題目を揭げて、各地に日貨排斥運動起り大正十二年八月迄継続した。

6 大正十四年五卅運動

是迄の排外運動は主として学生運動で激烈ではあつたが何処となく底力がなく、何等かの背景があつて学生を導くと言ふものではなかつた、然るに大正十年(一九二一年民国十年)頃になると、特殊な思想の動向を見せて一般的排外運動に変化して来た、即ち解放反抗の空漠なる運動は集中主義となつた、これは即ちロシア方面からの共産主義的民族革命の思想であつた。大正十三年(一九二四年民国十三年)国民党が連俄容共政策(蘇連邦と結び共産主義を容認す)を実施し、孫文は国民党政綱の民生主義と共産主義とを、相容れざるものと解するは謬見であるとの理論を以て、国共合作の実を挙げたので、都市労働運動は燎原の火の如く、其勢は全支を風靡し、流石に無鉄砲の学生団も、工人団の勇敢なる姿に見とれるのみであつた。

折柄大正十四年(一九二五年民国十四年)五月三十日、上海事件(内外綿会社の中国職工の同盟罷業に原因し示威運動中の学生団は南京路に於て工部局巡捕と衝突し学生側に数十名の死傷が生じた)起るや、六月一日より上海大罷業始まり、爾後北京、漢口、廣東等と全国的排外運動となり、中にも六月二十三日廣東示威運動当日に於ては、廣東沙基に於て英仏守備隊と、黄浦軍官学校学生軍との間に砲火が交へられ、死傷百四十余名を出した、之に原因して国民党工人部長廖仲愷は、ボロヂン(蘇邦派遣顧問)陳獨秀と共に起ち英日経済絶交運動に点火した、そこで工人団は、省港罷工委員会(本会の組織は純然たる無産階級政府の実現)を本拠として活動し、罷工參加工人二十万人に上つた。又七月二十一日には青島日本紡績罷工し、次で八月十一日天津裕大紡績は暴徒の襲撃を受けた、此期間満洲各地に於ても排日熱激烈で、官憲は頻に訓令を発して日本人排斥、朝鮮人圧迫を試みた。

対日運動は同年十月に至り終熄したが、蔣介石が北方軍閥打倒の為大正十五年(一九二六年民国十五年)七月、国民革命軍を率ひて北伐に出づるや、漢口事件を惹起し排外運動は最高潮に達し、長江沿岸の英国租界は殆ど回収され、本運動停止の代償として列国は二分五厘の不当課税を黙認し条約蹂躙の例を残した。英国は一万七千の陸軍を上海に送り既得権益の保護に当つたが、労働党内閣成立前後より対支弱腰策を採り、支那に於ける排英運動を和らげようとしたが、却て今日の如き落日の悲哀を味ふ立場となつた。

斯くの如くして共産党は大正十年(一九二一年民国十年)以来支那の思想界を支配し、有ゆる運動を続けて来たが、其後昭和二年(一九二七年民国十六年)四月十六日の上海クーデターに依り、国民党は完全に共産党と分離して、共産党よりは穩健な傾向を持つ様になつたが、然し之によりて培養された左傾思想は却々抜け切らず、帝国主義打倒、不平等条約撤廃と謂ふ様な、支那人一流の排外思想に共鳴し得るものは益〻強硬に高調せられ、対手国が聴かねば一方的意思で強行しやうとするので、国際間の信義の如きは自然無視せらるゝことゝなつた。

7 大正十四、五年郭松齢事件に関する満洲増兵後の排日運動

大正十四年(一九二五年民国十四年)十一月二十三日、郭松齡が灤州に於て叛旗を飜し十二月一日山海関を発し奉天に向ひ進擊したので、我が軍は満洲に於ける治安維持の為増兵を行つた。

之に対し出兵反対運動各地に起り、上海抗日国民大会は各地に排日檄文を発して排日運動を煽り、天津、長沙等は特に甚しく大正十五年四月迄続いた。東三省は支那側の取締に依り盛でなかつたが排日学生は諸処に蠢動した。

8 昭和二年第一次山東出兵後の排日運動

昭和二年(一九二七年民国十六年)に入るや日支間の不祥事件は益〻増加した。昭和二年三月二十四日南京日本領事館は南方革命軍の為に襲擊せられた、彼等は掠奪暴行のあらん限りを尽し、領事以下死傷数名を生じ帝国の威信は地を払ふに至つた。四月三日には漢口に於て、我が海軍上陸員と支那暴民との衝突より、群集は租界に進入し事態重大となつたので、海軍は陸戦隊を揚陸して在留邦人の保護に当つた。

又昭和二年五月二十九日支那側は臨江(鴨綠江北岸)領事館設置に反対し、領事館員一行の入国を拒止し其家屋の焼却を実行した。

次で南方革命軍の北上に伴ひ山東の治安紊れんとしたので、我が国は昭和二年五月二十八日第一次山東出兵を断行した。

之に対し国民党々部の指導の下に全国的に抗日運動が行はれた、即ち国民党は自ら排日運動の陣頭に立ち、政府各機関、特に治安の責に任ずる公安局が主席団の中に堂々と記名するに至つた。

南京中央党部は六月七日左記の有名なる「反日華北出兵命令」十八箇条を電命し、各省党部は直に之が実行に著手した。

     反日華北出兵命令

一 日本軍閥の中国侵略に反対す

二 日本の山東出兵に反対す

三 日本帝国主義者は英国帝国主義者の尻馬に乘つた

四 中国の自由平等は日本帝国主義者と併行することが出来ぬ

五 奉魯(奉天及山東のこと)軍閥を助くる日本帝国主義を打倒せよ

六 日本に救を求むる奉魯軍閥を削除せよ

七 山東を侵略する日本を駆逐せよ

八 日本国民は山東に出兵せる軍閥に反対せよ

九 世界の平和を擾乱する日本帝国主義を打倒せよ

十 日本の山東出兵は帝国主義を暴露せり

十一 中国に出兵せるものは帝国主義者である

十二 日本の山東出兵は国民革命の障害である

十三 日本帝国主義者に対し経済絶交を実行せよ

十四 帝国主義の味方たる軍閥は滅ぶべし

十五 日本は何故に帝国主義と道行きするか

又同年七月廣東省党部は左の如き「反日華北戦略」を各界に訓令した。

     反日華北戦略

一 対日経済絶交運動

二 被圧迫弱小民族との連合(朝鮮、台湾、琉球、安南等)

三 英、日、米帝国主義者連合戦線の破壞

四 反日華北運動の宣伝拡大

五 日本と外国との貿易阻止(各国運輸工人と連絡し、世界的同情罷工によりて目的を達す)

六 日本の植民地朝鮮、台湾、琉球を幇助して日本帝国より離脱せしむ

七 張作霖打倒等々

右条項の中最も注目すべきは日英共同動作の破壞で、列国の対支利害の不一致を見越し、支那と最も関係深き英日を分離し、之を各個に擊破することに著眼せる点と、共産的排外運動の色彩濃厚なることである。

9 昭和三年第二次山東出兵後の排日運動

昭和三年(一九二八年民国十七年)国民政府の北伐軍は漸次北軍を圧迫して北進し、其波瀾膠済鉄道沿線及済南附近に及び、帝国臣民の生命財産危殆に瀕するに至つた。此に於て帝国政府は、該方面在留邦人を現地に於て保護するの必要を認め、四月下旬一部の兵力を派遣した。然るに五月三日南軍部隊の掠奪的攻擊開始せられ、我が軍之に応戦し所謂済南事件となつた。

支那側は我が国が第二回の山東出兵をなすや、国際法違反、領土権侵害を唱へて我が国に抗議し、之を動機として排日気勢を昂め、済南事変の勃発により更に油を注いだ、支那側では早速悲痛な檄を全国に飛ばし、日本軍を山東より駆逐し経済絶交を断行すべしと敦圍き、五月四日の五四国恥記念日には、早くも鎭江、宜昌等の長江筋に排日運動が起り、更に南京政府の日支通商条約廃棄通告、奉国妥協間題が持ち上り排日の気勢は愈〻盛となり、上海を本舞台として長江一帯より廣東、福建にも及び一方吉林省方面に迄拡大し、昭和四年五月迄続いた。

右の排日に就て特に注意すべきは従来に比し遙に根強く組織されてあること、政府が公然其執行に当つて来たこと、その背後に共産党の魔の手が動いていること、国内産業の作興を目的とする、「国貨提唱」国貨愛護の観念が根強く動いていること等である。

10 昭和六年朝鮮事件後の排日

昭和六年万宝山事件に刺戟された朝鮮に於ける鮮支人衝突事件を中心として、又復排日運動が始められ、上海市党部首動者となり七月十五日上海反日援僑大会の名を以て通電を発し、全国に直に対日経済絶交を実行せしめた、帝国政府は国民政府に警告を発した結果、国民政府は厳重之を取り締ることを声明したが、単に表面的に止り、実質的には依然として不干涉煽動の態度を執つているので漸次拡大し、満洲事変迄継続した。

支那国民党々部及新聞等の虛構の宣伝は枚挙に遑ないが、上海市党部の宣言に「韓人の排華は韓民の本意ではない、実は日本人使嗾の為である、吾人は韓民に対して啻に仇視敵対すべからざるのみならず、却て深く憐憫と惋惜とを加へ、被圧迫民族共同奮闘の立場に立つて、其反帝国主義の革命意識を喚起し、日本人と持久的英勇的の生存闘争をなすべきである」と唱へ、又同党部宣伝部の伝単には「応有の努力」として「韓国人民の革命意識を喚起し、我が国民衆と一致して反帝国主義の連合戦線上に立ち、日本帝国主義者と一死戦を決すること」とあるが如き注目を要する。即ち之れは日本人と朝鮮人とを離間し、朝鮮人の革命を煽動するものにして共産系分子の巧妙なる工作である。

11 昭和六年満洲事変後の排日運動

満洲事変勃発するや、各地の排日運動は愈〻熾烈を加へ、国民党々部指導の下に「抗日救国会」の統制ある運動実施せられ、邦人に対する暴行は日を逐ふて盛となり、「救国会」は日本商品の売買、運輸禁止は勿論、既存契約の破棄其他日本人との各種取引の禁止、雇傭関係の禁止等、文字通りの対日経済絶交を決定し、且検査抑留、脅迫、暴行等種々の手段を以て之を強制し、肯ぜざる者に対しては制裁を科するのみならず、甚しきは死刑に処すべきを決議する等、在留邦人の居住営業の自由は固より、生活権の一切を封ぜんとする非人道的な、武力に依らざる戦争行為、即ち国交断絶と異ならざる事態を誘致したのである。

即ち重慶、鄭州、成都、杭州等の帝国領事館等は何れも安全に事務を執行し得ざる為、遂に居留民と共に引揚を決行するの外なき情勢となつたのみでなく、上海、漢口、天津、廣東、香港等南北支の重要都市に於ても暴虐なる支那民衆が邦人の生命財産に対し頻々として危害を加ふるに至つた。

そこで帝国政府は再三支那中央及地方官憲に対し、排日運動取締に関する要求を繰返したが、国民政府は此要求に応ずるの誠意なく、却て支那官民の不法行為を以て愛国心の発露として、寧ろ之を奨励するが如き態度であつたので、排日運動は愈〻深刻となり廣東、青島、福州等に於ける邦人殺害事件、帝国官吏侮辱事件、各地新聞の不敬記事々件等続発した。就中上海に於ては抗日会を始め排日団体の跳梁甚しく昭和七年一月十八日日蓮宗僧侶傷害致死事件は在留邦人を極度に憤激せしめ、我が陸戦隊に対する支那軍の挑戦的攻勢は今次の上海事件を惹起し、遂に陸軍の出動を見るに至つたが、抗日気勢極めて旺にして時局の前途楽観を許さない。

尙以上の各事件を単簡に表示すれば次の如くである。

(一部省略)

     五 排日運動に関する観察

1 排日の根抵は深い

排日運動は決して一時的のものでなく、支那の排外思想に基因し、革命外交の根幹とも謂ふぶき国民党の政綱たる、不平等条約の廃棄、帝国主義排撃の実行を目的として行はれる組織的な国家的行為であるから、其根拠の強さと真剣さとを認めねばならぬ。国民党がこの政策を変更せざる限り、或は国民党が崩壞せざる限り根絶を望み得ない。而も現代の青少年は小学時代より系統的な排日教育を受け、対日反感を多分に注入せられているから、彼等の成人後に於ける彼我国交に想到せば吾人は真に戦慄を禁じ得ない。

2 排日運動は国策遂行の手段

支那に於ける排日運動は、同国特有の政治組織に鑑み、政府と其職能を分つこと困難なる党部の直接間接の指導の下に、国策遂行の手段として行はるゝものにして、統制なき個人の自由意志に基くものと同一視すべきでない。斯くの如き行動は日支間現存条約の規定及精神に背馳するのみでなく正義友好の観念に反し、武力に依らざる敵対行為を意味するもので、武力を用ゆるものに比し更に陰険なるものである。

前節より帰納するも、排日運動は常に二十一箇条々約とか或は出兵問題とか、政治外交問題等を契機として起り、之によりて日本の経済界に圧迫を加へ国策遂行を便ならしめんとしいる。

3 排日運動の動機には不純なる点が少くない

■800-2■従来の排日が経済的の原因でなく、主として政治、外交問題に関連して行はれた事実からして、支那人は表面「愛国心」の発露たるかの如く言ふて居るが、其裏面には不純なる点が少くない。

(イ) 不平政客や政府反対の軍閥が名を愛国運動に藉りて、自己の政治的立場を対内、対外的に重からしめんが為、学生や無頼の徒を煽動挑唆している。

(一) 小数資本家が排日運動を利用し、日本資本家との競争的立場を有利に転回せしめんが為、排日貨国貨提唱の名の下に此運動を狂援して、販路の拡大手持品の市価を釣上げている。

(ハ) 在支外人は其機に乘じ自国品の売込を計らんとして策動している。

4 排日は一種の職業化した

排日運動を指導して功績顕著であることは、青年支那人にとりては一種の立身の捷径であるのみでなく、又少なからぬ収入を得る手段となるのである。最近激増しつゝある高等遊民は、愛国家と云ふ美名と右の利益を併せ得る此運動に参加し、正に一種の職業となつた。従て排日排貨の中止は、反日会関係者にとりては出世の手段、生活の方便を失ふことを意味するのであるから、政府が真剣になつて取締らざる限り今後永く継続するものと見ねばならぬ。

5 排日運動継続期間

前表によりて見るも従来の排日貨運動は永続性少く、永くも一年多くは四、五箇月位にて自然消滅に帰して居る、之は日本から行く生活必需品が杜絶する為、彼等自ら困窮する為であるが、現在及将来の排日は国貨提唱に依ること、竝国民党の統制力の増加に伴ひ、従来と同一視することは出来ない。

6 排日の深刻化と在留邦人

前節には排日抗日の画期的事件を挙げたが排日は決して之のみではない、排日団体は常置的機関と化したので、而も其職業化に伴ひて排日は益〻深刻味を増加し、在留邦人に与ふる圧迫に至りては真に筆舌の外である。在留邦人は居住営業の自由は固より、生活権の一切を封ぜられあるの状態にして、排日即ち生活苦で人道上看過すべからざる行為である。

7 排日と第三国の利用

支那は古来以夷制夷又は遠交近攻の策を以て対外政策の機軸となしているので、排斥の対象となれる国を第三国を以て抵制せんとするのである、今日に於ても国際難局に当りては、之を最善の手段として此術策を繰返すのであるから、第三国が聊かでも、支那に有利であると信ぜられる様な素振をなす間は排外運動は根絶せず、各国が之によつて各個擊破の憂目を見るに至るのである。

8 排日運動の中心地方は支那本部特に長江流域である

是迄の排日は主として支那本部特に中支、南支方面に行はれていることは前表に明である、これ国民党の根拠地が排日の源泉たることを明示するもので、満洲方面では日支交涉頻繁であるにも拘らず比較的少く亦悪性でなかつた、但学良易幟後は次第に盛となり満洲事変となつた。

9 共産思想の動きを注意せねばならぬ

連俄容共政策により輸入せられた共産的革命思想は国民党に浸潤し、帝国主義打倒、不平等条約廃棄等の「スローガン」は最も高調せられ、而も小児病的急角度を以て排日運動の全面に策動している、資本主義を打破しプロレタリア独裁を目標とする共産主義と帝国主義的国家の桎梏を脱せんとする民族独立運動とは、容易に相抱擁するの微妙なる関係あるを以て、コミンテルンは支那民衆の排外思想を利用し、自己の目的を達せしめんが為多大の努力を傾注しているので、排日運動に一種の共産的色彩あることは見逃すことは出来ぬ。

10 支那は法治国たるの資格がない

私的団体に過ぎざる反日会、が法律の定むる所に依らざる規則を作りて刑罰を個人に課するが如きは、明に自国々家の権力を否認するものと謂はねばならぬ。即ち反日団は関係商人に対し排貨を強制し、之に従はざるものには残虐なる私刑を加へ、其貨物を没収するの不法行為を敢てしている。反日会の斯かる兇暴なる行動に対して、身体財産の安全に関する保証のない乱脈極まる支那の現状は、自ら其国際的信用を破壞し、居留地の回収、領事裁判権の撤廃等不平等条約廃棄の目的達成を阻害し、支那の国民的運動に同情ある者をして失望せしむるに至るであらう。

11 排日運動は皇軍の威力発揮せられたる地には少い

従来日本軍の威力発揚せられたる地方は大体に排日少く、済南事変の際第六師団の勇戦の印象深く刻まれたる済南の如きは、満洲事変後も殆ど排日の見るべきものがない。之に反し長江筋其他南支方面に於ては、皇軍の威力を知らないので日本を軽視し従て排日が盛である。

12 排日の影響

排日の影響は貿易上対支輸出品の低落、海運の不振、在支企業の打擊等であるが最も注意すべきは国貨提唱の強調、即ち自国品を本位に置いた経済的立場からの競争であるから、日本として之等に対する対策を講じ経済的に彼等と対抗するの覚悟と準備が必要である、単に政府の政治的解決のみに依らず、良貨を以て惡貨を駆逐する様に心掛ねばならぬ。

13 排日停止は日支交渉開始の根本条件

将来日支外交を正常なる軌道に復帰せしむる為には排日を終熄せしめねばならぬ、之が第一の要件は抗日教育の廃棄と、抗日運動の永久停止である。即ち国民党が其政策を改むるか、又は国民党を打倒して支那国民を国民党一党独裁より救出することが必要と考へられる。


附録

   自大正十六年六月至昭和六年十月 支那の対日不法行為一覧

一、本附録の目的は最近数年間に於ける、支那側の対日不法行為の一般を揭げて本文教究の一参考に供するに在る。

 従て主要なる事件のみを掲げることゝし他の多くの資料を割愛した。

一、但し材料の蒐集意の如くならず、特に昭和六年度の資料不十分なるは遺憾とする所である、然し同年度に至りては、排日行為は愈々巧妙悪竦深刻となり、支那側日々の遺口は悉く排日たらざるはなく、支那人の日常生活即ち排日となつて居るので、之が表示の如きも甚だ困難となつて来たことを願慮せねばならぬ。


   自大正十六年六月至昭和六年十月 支那の対日不法行為一覧

(表省略)

(Source:国立公文書館 C1302565300~5900)

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