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満洲国建国宣言 1932年03月01日

 満洲国建国宣言(ひらがな化、一部新字体化)


     満洲國建國宣言

想ふに我か滿蒙各地は邊陲に屬在し開國綿遠なり。諸れを往籍に徵して分倂稽ふヘし。地質膏膄、民風樸茂。開放を經るに迨んて生聚日に繁く、物產豐饒實に奧府となる。乃ち辛亥革命自り共和民國成立以來、東省の軍閥は中原變亂の機に乘して、政權を攫取し、三省に據りて己か有となし、貔貅相繼き、竟に將に廿年ならんとす。狼厲貪婪、驕奢淫佚、民生の休戚を顧みることなく一に惟れ私利をのみ是れ圖る。

內は則ち暴欲橫征、恣意揮霍、以て幣制紊亂、百業凋零を致せり。且復時に野心を逞うして兵を關內に進め、地方を擾害し、民命を傷殘す。一再敗衂するも尙ほ悛悔せす。外は則ち信義を衊棄し、釁を隣邦に開き、夙に親仁の規を昧まし、專ら取つて排外を事と爲す。加ふるに警政修まらさるを以て、盜匪の橫行四境に遍く、至る處、擄掠焚殺して村里一空、老若溝壑、餓莩途に載す我か滿蒙三千萬民衆、命を此の殘暴無法の區域內に託するは死を待つのみ、何そ能く自ら脱せんや。今や何の幸そ、手を隣師に借りて茲に醜類を驅り、積年軍閥盤踞し、秕政萃聚せる地を舉け一旦にして之を廓淸す。此れ天我か滿蒙の民に蘇息の良機を予ヘしなり。吾人の當に奮然として興起し邁往無前、以て原始を圖るヘきのみ。

是を惟ふに內、中原を顧みれは改革自り以還、初めは則ち群雄角逐して爭戰頻年、近くは則ち一黨專橫にして國政を把持す。何をか民生と云ふ、實に之を死に置くなり。何をか民權と云ふ、惟利を是れ專らにするなり。何をか民族と云ふ、但た黨あるを知るのみ。既に曰く天下を公と爲すと。又曰く黨を以て國を治むと。矛盾乗謬。自ら欺き、人を欺く。種々の詐僞は窮詰するに勝ヘす。此來內閧迭々起り、疆土分崩し、黨且自ら存する能はす、國何そ能く顧みられん。是に於て赤匪橫行し、災祲薦りに吿く海內を毒痛し、民怨沸騰し政體の不良を痛心疾首せさるは無し。而して曩昔の政治淸明の會を追思す。直に唐虞三代の遠き如きは幾及すヘからす。此れ我か各友邦の共に目賭し、而して同しく感慨を深うする所なり。夫れ二十年試験の得る所を以てすれは其の結果一に此に至る。亦廢然として返るヘし矣。乃ち猶疾を諱し、醫を忌み、其の舊惡を怙み、詞を民意の從違未た遏抑すヘからさるに藉らんか、然らは則ち其の之く所を縱にせは、浸く共產に至るのみに非す、自ら亡國滅種の地に陷りて已まさらん。

今、我か滿蒙民衆は天賦の機緣を以て、力めて振拔を求め、自ら政治萬惡國家の範圍外に脱せされは、勢必す胥ひ戴せて溺に及ひ、同盡に歸さんのみ。數月來幾度か奉天、吉林、黑龍江、熱河、東省特別區、蒙古各盟旗の官紳士民の集合を經て、詳に硏討を加ヘ、意志既に一致に趨く。以爲ヘらく爲政は多言を取らす、只實行如何を視るのみ。政體は何等を分たす、只安集を以て主と爲す。滿蒙は舊時本と別に一國を爲す。今や時局の必要を以て自ら樹立を謀らさる能はすと。應に即ち三千萬民衆の意向を以て即日宣吿して中華民國と關係を脱離し、滿洲國を創立す。茲に特に建設綱要を將て中外に昭布し、咸く聞知せしむ。

竊に惟ふに政は道に本つき、道は天に本つく。新國家建設の旨は一に以て順天安民を主と爲す。施政は必す眞正の民意に徇ひ、私見の或存を容さす。凡そ新國家領土內に在りて居住する者は皆種族の岐視尊卑の分別なし。原有の漢族、滿族、蒙族及日本、朝鮮の各族を除くの外、即ち其他の國人にして長久に居留を願ふ者も亦平等の待遇を享くることを候。其の應に得ヘき權利を保障し、其をして絲毫も侵損あらしめす。竝に力を竭くして往日黑暗の政治を鏟除し、法律の改良を求め、地方自治を勵行し、廣く人材を收めて賢俊を登用し、實業を奬勵し、金融を統一し、富源を開闢し、生計を維持し、警兵を調練し、匪禍を肅淸せむ。更に進んて敎育の普及を言ヘは、當に禮敎を是れ崇ふヘし。王道主義を實行し、必す境內一切の民族をして熙熙皥々として春臺に登るか如くならしめ、東亞永久の光榮を保ちて世界政治の模型と爲さむ。其の對外政策は則ち信義を尊重して、力めて親睦を求め、凡そ國際間の舊有の通例は遵守を敬謹せさることなし。其の中華民國以前各國と定むる所の條約、債務の滿蒙新國領土以內に屬するものは、皆國際慣例に照し繼續承認し、其の自ら我か新國境內に投資して商業を創興し利源を開拓することを願ふもの有らは、何國に論なく一律に歡迎し、以て門戶開放機會均等の實際を達せむ。

以上宣布せる各節は新國家立國主要の大綱たり。新國家成立の日より起り、即ち當に新組織の政府に由りて其の責任を負ふヘし極めて誠懇なる表示を以て、三千萬民衆の前に向ひ實行を宣誓す。

天地照鑑、此の言を渝ふることなし

  大同元年三月一日

(国立公文書館:2.満洲国建国宣言 B02030709100)

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