スキップしてメイン コンテンツに移動

極東国際軍事裁判起訴状附属書E 1946年04月29日

 極東国際軍事裁判記録 起訴状附属書E(ひらがな化、一部新字体化)


附属書E

   起訴状に記載の犯罪に対する個人的責任に関する記述

以下に於て各被告の氏名の次に示されたる記述は検察当局に於て他の事項と共に当該被告の個人的責任を確証するものとして依存する事項たり

各被告がその占むる地位よりする権力威信及び個人的勢力を本起訴状中当該被告の氏名を記載せる各訴因に掲げられたる犯行を促進し且遂行する為めに用ひたることが罪に問はるヽものとす

各被告が以下に於てその氏名に対し掲げられたる期間中彼が閣員たりし諸内閣及び彼が支配的地位を有せし一般官庁機関、陸軍機関又は海軍機関の凡ての行為又は懈怠行為に対する責任者の一人たりしことが罪に問はるヽものとす

各被告がその氏名の後に掲げられたる番号により示さるヽ通り千九百四十一年(昭和十六年)十二月七日、八日の不法なる戦争を準備しこれに導きたる千九百四十一年(昭和十六年)に於ける左記時日又はその頃開催せられたる会議及び閣議の幾つかに於て採択せられたる諸決議の際に出席し且これに同意せしことが罪に問はるヽものとす

 一、千九百四十一年(昭和十六年) 六月二十五日(連絡会議)

 二、千九百四十一年(昭和十六年) 六月二十六日(連絡会議)

 三、千九百四十一年(昭和十六年) 六月二十七日(連絡会議)

 四、千九百四十一年(昭和十六年) 六月二十八日(連絡会議)

 五、千九百四十一年(昭和十六年) 六月 三十日(軍事参議官会議)

 六、千九百四十一年(昭和十六年) 七月 二 日(御前会議)

 七、千九百四十一年(昭和十六年) 八月 七 日(思想審議会)

 八、千九百四十一年(昭和十六年) 八月二十二日(閣議)

 九、千九百四十一年(昭和十六年) 九月 六 日(御前会議)

 十、千九百四十一年(昭和十六年) 十月 十七日(重臣会議)

十一、千九百四十一年(昭和十六年)十一月二十八日(連絡会議)

十二、千九百四十一年(昭和十六年)十一月二十九日(重臣会議)

十三、千九百四十一年(昭和十六年)十二月 一 日(御前会議)

十四、千九百四十一年(昭和十六年)十二月 一 日(閣議)


荒木

 被告荒木は千九百二十八年(昭和三年)より千九百四十五年(昭和二十年)に至る迄の期間に於て就中左記の地位を占め居たり即ち

 教育総監部本部長(千九百三十一年)(昭和六年)

 犬養内閣及齋藤内閣陸軍大臣(千九百三十一年十二月より千九百三十四年七月迄)(昭和六年十二月より昭和九年七月迄)

 陸軍大将(千九百三十三年)(昭和八年)

 軍事参議官(千九百三十四年より千九百三十六年迄)(昭和九年より昭和十一年迄)

 内閣参議(千九百三十七年)(昭和十二年)

 近衛内閣次いで平沼内閣に於ける文部大臣(千九百三十八年五月より千九百三十九年八月迄)(昭和十三年五月より昭和十四年八月迄)

 内閣参議(千九百四十年)(昭和十五年)


土肥原

 被告土肥原は千九百二十八年(昭和三年)より千九百四十五年(昭和二十年)に至る迄の期間に於て就中左記の地位を占め居たり即ち

 在満洲特務機関長(千九百三十一年九月)(昭和六年九月)

 奉天市長(千九百三十一年九月より仝年十月迄)(昭和六年九月より仝年十月迄)

 関東軍司令部付(千九百三十三年)(昭和八年)北支自治政府主席顧問

 満洲駐屯第五軍司令官(千九百三十八年より千九百四十年迄)(昭和十三年より昭和十五年迄)

 軍事参議官(千九百四十年より千九百四十三年迄)(昭和十五年より昭和十八年迄)

 陸軍航空総監(千九百四十一年)(昭和十六年)

 陸軍大将(千九百四十一年四月)(昭和十六年四月)

 東部軍司令官(千九百四十三年)(昭和十八年)

 在新嘉坡第七方面軍司令官(千九百四十四年より千九百四十五年迄)(昭和十九年より昭和二十年迄)

 教育総監(千九百四十五年四月)(昭和二十年四月)

 会議 五


橋本

 被告橋本は千九百二十八年(昭和三年)より千九百四十五年(昭和二十年)に至る迄の期間に於て就中左記の地位を占め居たり即ち

 参謀本部附(千九百三十三年)(昭和八年)

 退役(千九百三十六年二月)(昭和十一年二月)

 「橋本欣五郎の宣言」の著者(千九百三十六年)(昭和十一年)

 復役(千九百三十七年)(昭和十二年)

 南京掠奪暴行事件当時に於ける現地砲兵連隊長(千九百三十七年)(昭和十二年)

 「レディーバード」号及び「パネイ」号砲擊の日本軍指揮官(千九百三十七年)(昭和十二年)

 多数の書籍及び雜誌「太陽大日本」誌上の多数の論文及び其の他の多数の出版物、演説の筆者並に講演者、右は何れも侵略的戦争を鼓吹せるものなり

 軍の政治支配の煽動並に侵略的戦争促進を目的とする多くの団体の会員

 彼が十分侵略的と思考せざる政治家及び将校の排擊を目的とする多数策謀の発案者

 大政翼賛会創設者の一人(千九百四十年)(昭和十五年)

 衆議員議員(千九百四十二年)(昭和十七年)


 畑被告畑は千九百二十八年(昭和三年)より千九百四十五年(昭和二十年)に至る迄の期間に於て就中左記の地位を占め居たり即ち

 在満師団長(千九百三十三年)(昭和八年)

 陸軍航空本部長(千九百三十五年)(昭和十年)

 台湾軍司令官(千九百三十六年より千九百三十七年迄)(昭和十一年より昭和十二年迄)

 教育総監及び軍事参議官(千九百三十七年八月)(昭和十二年八月)

 陸軍大将(千九百三十七年二月)(昭和十二年二月)

 中支那派遣軍最高指揮官(千九百三十八年二月)(昭和十三年二月)

 軍事参議官(千九百三十九年一月)(昭和十四年一月)

 阿部内閣陸軍大臣(千九百三十九年八月より千九百四十年一月迄)(昭和十四年八月より昭和十五年一月迄)

 中支那派遣軍最高指揮官(千九百四十年七月より千九百四十四年迄)

(昭和十五年七月より昭和十九年迄)

 元師府に列せられ元師の称号を賜ふ(千九百四十四年六月)(昭和十九年六月)

 教育総監(千九百四十四年十一月)(昭和十九年十一月)


平沼

 被告平沼は千九百二十八年(昭和三年)より千九百四十五年(昭和二十年)に至る迄の期間に於て就中左記の地位を占め居たり即ち

 国本社の創設者及び千九百二十六年より千九百三十六年(大正十五年より昭和十一年)に至る迄の期間に於ける総裁

 枢密院副議長(千九百三十年より千九百三十六年迄)(昭和五年より昭和十一年迄)

 枢密院議長(千九百三十六年より千九百三十九年迄)(昭和十一年より昭和十四年迄)

 内閣総理大臣(千九百三十九年一月より八月迄)(昭和十四年一月より八月迄)

 近衛内閣無任所大臣並に一時内務大臣後副総理(千九百四十年七月より千九百四十一年十月迄)(昭和十五年七月より昭和十六年十月迄)

 思想審議会委員(千九百四十一年八月)(昭和十六年八月)

 枢密院議長(千九百四十五年)(昭和二十年)

 会議一、二、三、四、六、七、八、十二、


廣田

 被告廣田は千九百二十八年(昭和三年)より千九百四十五年(昭和二十年)に至る迄の期間に於て就中左記の地位を占め居たり即ち

 「ソビエツト」 社会主義共和国連邦駐剳大使(千九百三十年)(昭和五年)

 齋藤内閣外務大臣(千九百三十三年九月より千九百三十四年七月迄)(昭和八年九月より昭和九年七月迄)及び岡田内閣外務大臣(千九百三十四年七月より千九百三十六年三月迄)(昭和九年七月より昭和十一年三月迄)

 内閣総理大臣及び一時外務大臣兼摂(千九百三十六年三月より千九百三十七年二月迄)(昭和十一年三月より昭和十二年二月迄)

 近衛内閣外務大臣(千九百三十七年六月より千九百三十八年五月迄)(昭和十二年六月より昭和十三年五月迄)

 内閣顧問(千九百四十年)(昭和十五年)

 会議十、十二、


星野

 被告星野は千九百二十八年(昭和三年)より千九百四十五年(昭和二十年)に至る迄の期間に於て就中左記の地位を占め居たり即ち

 満洲国政府財政部総務司長(千九百三十二年)(昭和七年)

 満洲国財政部総務司長(千九百三十四年)(昭和九年)

 満洲国政府財政部次長(千九百三十六年)(昭和十一年)

 満洲国々務院総務庁長(千九百三十六年十二月)(昭和十一年十二月)

 満洲国総務長官(千九百三十八年)(昭和十三年)

 近衛内閣企画院総裁及び後、 無任所大臣(千九百四十年七月より千九百四十一年四月迄)(昭和十五年七月より昭和十六年四月迄)

 東條内閣書記官長及び国務大臣(千九百四十一年十月十六日より千九百四十四年七月迄)(昭和十六年十月十六日より昭和十九年七月迄)

 大蔵省顧問(千九百四十四年十二月)(昭和十九年十二月)

 会議十一、十四、


板垣

 被告板垣は千九百二十八年(昭和三年)より千九百四十五年(昭和二十年)に至る迄の期間に於て就中左記の地位を占め居たり即ち

 関東軍陸軍大佐(千九百二十九年)(昭和四年)

 関東軍陸軍少将(千九百三十二年)(昭和七年)

 関東軍参謀副長(千九百三十四年)(昭和九年)

 在支第五師団長(千九百三十七年三月)(昭和十二年三月)

 関東軍参謀長(千九百三十六年より千九百三十七年迄)(昭和十一年より昭和十二年迄)

 参謀本部付(千九百三十七年五月)(昭和十二年五月)

 近衛内閣及平沼内閣陸軍大臣兼内閣対満事務局総裁(千九百三十八年六月より千九百三十九年八月迄)(昭和十三年六月より昭和十四年八月迄)

 支那派遣軍参謀長(千九百三十九年九月)(昭和十四年九月)

 陸軍大将(千九百四十一年七月)(昭和十六年七月)

 朝鮮軍司令官(千九百四十一年七月より千九百四十五年迄)(昭和十六年七月より昭和二十年迄)

 軍事参議官(千九百四十三年)(昭和十八年)

 在新嘉坡第七方面軍司令官(千九百四十五年四月)(昭和二十年四月)


賀屋

 被告賀屋は千九百二十八年(昭和三年)より千九百四十五年(昭和二十年)に至る迄の期間に於て就中左記の地位を占め居たり即ち

 大蔵省主計官(千九百三十四年)(昭和九年)

 近衛内閣大蔵大臣(千九百三十七年六月より千九百三十八年五月迄)(昭和十二年六月より昭和十三年五月迄)

 対支事務局顧問(千九百三十九年)(昭和十四年)

 北支那開発会社総裁(千九百三十九年より千九百四十一年迄)(昭和十四年より昭和十六年迄)

 東條内閣大蔵大臣(千九百四十一年六月より千九百四十四年二月迄)(昭和十六年六月より昭和十九年二月迄)

 翼賛政治会理事(千九百四十四年)(昭和十九年)

 会議十一、十二、十三、十四、


木戸

 被告木戸は千九百二十八年(昭和三年)より千九百四十五年(昭和二十年)に至る迄の期間に於て就中左記の地位を占め居たり即ち

 内大臣秘書官長(千九百三十年)(昭和五年)

 近衛内閣文部大臣(千九百三十七年)(昭和十二年)

 近衛内閣厚生大臣(千九百三十八年)(昭和十三年)

 平沼内閣内務大臣(千九百三十九年)(昭和十四年)

 内大臣(千九百四十年より千九百四十五年迄)(昭和十五年より昭和二十年迄)

 天皇側近主要輔弼者にして重臣会議を主宰す

 会議十、十二、


木村

 被告木村は千九百二十八年(昭和三年)より千九百四十五年(昭和二十年)に至る迄の期間に於て就中左記の地位を占め居たり即ち

 関東軍参謀長(千九百四十年)(昭和十五年)

 近衛内閣及び東條内閣陸軍次官(千九百四十一年より千九百四十四年二月迄)(昭和十六年より昭和十九年二月迄)

 軍事参議官(千九百四十三年)(昭和十八年)

 緬甸派遣軍司令官(千九百四十四年)(昭和十九年)

 陸軍大将(千九百四十五年)(昭和二十年)


小磯

 被告小磯は千九百二十八年(昭和三年)より千九百四十五年(昭和二十年)に至る迄の期間に於て就中左記の地位を占め居たり即ち

 陸軍省軍務局長(千九百三十年)(昭和五年)

 犬養内閣陸軍次官(千九百三十二年)(昭和七年)

 関東軍参謀長(千九百三十二年より千九百三十四年迄)(昭和七年より昭和九年迄)

 朝鮮軍司令官(千九百三十五年より千九百三十六年迄)(昭和十年より昭和十一年迄)

 陸軍大将(千九百三十七年)(昭和十二年)

 平沼内閣拓務大臣(千九百三十九年)(昭和十四年)及び米内内閣拓務大臣(千九百四十年)(昭和十五年)

 朝鮮総督(千九百四十二年五月)(昭和十七年五月)

 内閣総理大臣(千九百四十四年七月より千九百四十五年四月迄)(昭和十九年七月より昭和二十年四月迄)


松井

 被告松井は千九百二十八年(昭和三年)より千九百四十五年(昭和二十年)に至る迄の期間に於て就中左記の地位を占め居たり即ち

 寿府会議に於ける日本陸軍代表(千九百三十一年)(昭和六年)

 軍事参議官(千九百三十三年三月)(昭和八年三月)

 陸軍大将(千九百三十三年)(昭和八年)

 大東亜協会創設者の一人(千九百三十三年)(昭和八年)

 中支那方面軍最高指揮官(千九百三十七年十月より千九百三十八年二月迄)(昭和十二年十月より昭和十三年二月迄)

 内閣参議(千九百三十八年七月より千九百四十年一月迄)(昭和十三年七月より昭和十五年一月迄)

 興亜連盟顧問(千九百四十年)(昭和十五年)

 大政翼贊会大東亜事務局顧問(千九百四十三年)(昭和十八年)

 大東亜振興会総裁(千九百四十四年)(昭和十九年)


松岡

 被告松岡は千九百二十八年(昭和三年)より千九百四十五年(昭和二十年)に至る迄の期間に於て就中左記の地位を占め居たり即ち

 国際連盟会議への主席代表(千九百三十三年)(昭和八年)

 南満洲鉄道会社総裁(千九百三十五年より千九百三十九年迄)(昭和十年より昭和十四年迄)

 内閣参議(千九百四十年)(昭和十五年)

 近衛内閣外務大臣(千九百四十年七月より千九百四十一年七月迄)(昭和十五年七月より昭和十六年七月迄)

 「昭和維新」(千九百三十八年)(昭和十三年)及び侵略的戦争を鼓吹せる其の他の著書、論文、演説の筆者並に講演者

 会議一、二、三、四、六、


 被告南は千九百二十八年(昭和三年)より千九百四十五年(昭和二十年)に至る迄の期間に於て就中左記の地位を占め居たり即ち

 朝鮮軍司令官(千九百二十九年)(昭和四年)

 若槻内閣陸軍大臣(千九百三十一年四月より千九百三十一年十二月迄)(昭和六年四月より昭和六年十二月迄)

 軍事参議官(千九百三十一年より千九百三十四年迄)(昭和六年より昭和九年迄)

 関東軍司令官(千九百三十四年より千九百三十六年迄)(昭和九年より昭和十一年迄)

 朝鮮総督(千九百三十六年より千九百四十二年迄)(昭和十一年より昭和十七年迄)

 枢密顧問官(千九百四十二年より千九百四十五年迄)(昭和十七年より昭和二十年迄)

 大日本政治会総裁(千九百四十五年)(昭和二十年)


武藤

 被告武藤は千九百二十八年(昭和三年)より千九百四十五年(昭和二十年)に至る迄の期間に於て就中左記の地位を占め居たり即ち

 陸軍大学校教官(千九百三十年より千九百三十二年迄)(昭和五年より昭和七年迄)

 陸軍省軍務局先任将校(千九百三十五年より千九百三十六年迄)(昭和十年より昭和十一年迄)

 参謀本部課長(千九百三十七年)(昭和十二年)

 中支軍司令部附(千九百三十七年八月)(昭和十二年八月)

 陸軍大佐、関東軍司令部附陸軍省軍務局長(千九百三十九年十月より千九百四十二年四月迄)(昭和十四年十月より昭和十七年四月迄)

 「スマトラ」第二守備師団長(千九百四十三年)(昭和十八年)

 山下大将麾下在比律賓第十四方面軍参謀長(千九百四十四年十月)(昭和十九年十月)

 会議一、二、三、四、六、九、十一、十三、


永野

 被告永野は千九百二十八年(昭和三年)より千九百四十五年(昭和二十年)に至る迄の期間に於て就中左記の地位を占め居たり即ち

 海軍々令部次長(千九百三十年)(昭和五年)

 寿府海軍々縮会議への代表(千九百三十一年)(昭和六年)

 軍事参議官(千九百三十三年)(昭和八年)

 海軍大将(千九百三十四年)(昭和九年)

 倫敦海軍々縮会議への主席代表(千九百三十五年)(昭和十年)

 廣田内閣海軍大臣(千九百三十六年三月より千九百三十七年二月迄)(昭和十一年三月より昭和十二年二月迄)

 連合艦隊司令長官(千九百三十七年)(昭和十二年)

 軍事参議官(千九百四十年)(昭和十五年)

 海軍々令部長(千九百四十一年四月より千九百四十四年二月迄)(昭和十六年四月より昭和十九年二月迄)

 天皇最高海軍顧問、 千九百四十四年(昭和十九年)二月より

 会議一、二、三、四、六、九、十一、十三、


 被告岡は千九百二十八年(昭和三年)より千九百四十五年(昭和二十年)に至る迄の期間に於て就中左記の地位を占め居たり即ち

 海軍々令部附(千九百三十年)(昭和五年)

 海軍省総務局課長及び軍務局課長(千九百三十八年)(昭和十三年)

 海軍省総務局長及び軍務局長(千九百四十年十月より千九百四十四年八月迄)(昭和十五年十月より昭和十九年八月迄)

 海軍中将(千九百四十二年)(昭和十七年)

 小磯内閣海軍次官(千九百四十四年七月二十日)(昭和十九年七月二十日)

 鎭海(朝鮮) 海軍鎮守府司令長官(千九百四十四年九月より千九百四十五年六月迄)(昭和十九年九月より昭和二十年六月迄)

 会議一、二、三、四、六、九、十一、十三、


大川

 被告大川は千九百二十八年(昭和三年)より千九百四十五年(昭和二十年)に至る迄の期間に於て就中左記の地位を占め居たり即ち

 南満洲鉄道会社東亜経済調査局理事長、千九百二十六年(大正十五年)より

 奉天事件の組織者の一人(千九百三十一年九月十八日)(昭和六年九月十八日)

 「日本歴史読本」の著者(千九百三十五年)(昭和十年)並に亜細亜より白色人種の武力放逐を目的とする侵略戦争を鼓吹せる著書、論文及び演説の筆者並に講演者


大嶋

 被告大嶋は千九百二十八年(昭和三年)より千九百四十五年(昭和二十年)に至る迄の期間に於て就中左記の地位を占め居たり即ち

 伯林大使館附陸軍武官(千九百三十六年)(昭和十一年)

 独逸国駐剳大使(千九百三十八年十月より千九百三十九年十月迄)(昭和十三年十月より昭和十四年十月迄)更に千九百四十一年(昭和十六年)二月より千九百四十五年(昭和二十年)四月迄同国駐剳大使


佐藤

 被告佐藤は千九百二十八年(昭和三年)より千九百四十五年(昭和二十年)に至る迄の期間に於て就中左記の地位を占め居たり即ち

 陸軍大学校教官(千九百三十五年)(昭和十年)

 陸軍省軍務局附企画院事務官(千九百三十七年より千九百三十八年迄)(昭和十二年より昭和十三年迄)

 陸軍省軍務局軍務課長(千九百四十一年二月より千九百四十二年四月迄)(昭和十六年二月より昭和十七年四月迄)

 陸軍少将(千九百四十一年十月)(昭和十六年十月)

 陸軍省軍務局長(千九百四十二年四月より千九百四十四年十二月迄)(昭和十七年四月より昭和十九年十二月迄)

 陸軍中将(千九百四十五年三月)(昭和二十年三月)


重光

 被告重光は千九百二十八年(昭和三年)より千九百四十五年(昭和二十年)に至る迄の期間に於て就中左記の地位を占め居たり即ち

 中華民国駐剳公使(千九百三十一年)(昭和六年)

 齋藤内閣及び岡田内閣に於ける外務次官(千九百三十三年より千九百三十六年迄)(昭和八年より昭和十一年迄)

 「ソビエツト」社会主義共和国連邦駐剳大使(千九百三十六年十一月より千九百三十八年十一月迄)(昭和十一年十一月より昭和十三年十一月迄)

 英国駐剳大使(千九百三十八年より千九百四十一年六月迄)(昭和十三年より昭和十六年六月迄)

 南京傀儡政権駐剳大使(千九百四十一年十二月より千九百四十三年四月迄)(昭和十六年十二月より昭和十八年四月迄)

 東條内閣外務大臣(千九百四十三年四月より千九百四十四年七月迄)(昭和十八年四月より昭和十九年七月迄)並に小磯内閣外務大臣兼大東亜大臣(千九百四十四年七月より千九百四十五年四月迄)(昭和十九年七月より昭和二十年四月迄)


嶋田

 被告嶋田は千九百二十八年(昭和三年)より千九百四十五年(昭和二十年)に至る迄の期間に於て就中左記の地位を占め居たり即ち

 連合艦隊参謀長(千九百三十年)(昭和五年)

 海軍々令部次長(千九百三十五年より千九百三十七年迄)(昭和十年より昭和十二年迄)

 第二艦隊司令長官(千九百三十七年十二月)(昭和十二年十二月)

 支那方面艦隊司令長官(千九百四十年五月)(昭和十五年五月)

 海軍大将(千九百四十年)(昭和十五年)

 東條内閣海軍大臣(千九百四十一年十月)(昭和十六年十月)

 軍事参議官(千九百四十四年)(昭和十九年)

 海軍々令部長(千九百四十四年二月より七月迄)(昭和十九年二月より七月迄)

 会議十二、十三、十四、


白鳥

 被告白鳥は千九百二十八年(昭和三年)より千九百四十五年(昭和二十年)に至る迄の期間に於て就中左記の地位を占め居たり即ち

 外務省情報部長(千九百三十年)(昭和五年)瑞典、諾威、丁抹、芬蘭駐剳公使(千九百三十六年)(昭和十一年)

 伊太利駐剳大使(千九百三十九年)(昭和十四年)

 外務省顧問(千九百四十年)(昭和十五年)

 「コンテンポラリージアハン」誌上の「東亜新秩序」建設上世界戦争の必然性を指摘せる論文の筆者(千九百四十一年四月十六日)(昭和十六年四月十六日)

 翼贊政治会理事(千九百四十三年)(昭和十八年)


鈴木

 被告鈴木は千九百二十八年(昭和三年)より千九百四十五年(昭和二十年)に至る迄の期間に於て就中左記の地位を占め居たり即ち

 陸軍省軍務課員(千九百三十一年)(昭和六年)

 陸軍省軍務局附(千九百三十三年)(昭和八年)

 内閣調査局調査官(千九百三十五年)(昭和十年)

 第十四連隊長(千九百三十六年)(昭和十一年)

 興亜院政務部長(千九百三十八年十二月より千九百四十一年四月迄)(昭和十三年十二月より昭和十六年四月迄)

 興亜院総務長官心得(千九百四十年)(昭和十五年)

 近衛内閣及び東條内閣企画院総裁並に無任所大臣(千九百四十一年四月より千九百四十三年十月迄)(昭和十六年四月より昭和十八年十月迄)

 内閣顧問(千九百四十三年十一月より千九百四十四年九月迄)(昭和十八年十一月より昭和十九年九月迄)

 大政翼贊会理事(千九百四十四年)(昭和十九年)

 会議六、八、九、十一、十三、十四、


東郷

 被告東郷は千九百二十八年(昭和三年)より千九百四十五年(昭和二十年)に至る迄の期間に於て就中左記の地位を占め居たり即ち

 独逸駐剳大使(千九百三十七年十月)(昭和十二年十月)

 「ソビエツト」社会主義共和国連邦駐剳大使(千九百三十八年十月)(昭和十三年十月)

 東條内閣外務大臣及び拓務大臣(千九百四十一年十月より千九百四十二年三月迄)(昭和十六年十月より昭和十七年三月迄)

 鈴木内閣外務大臣及び大東亜大臣(千九百四十五年四月より(昭和二十年四月より)

 会議十一、十二、十三、十四、


東條

 被告東條は千九百二十八年(昭和三年)より千九百四十五年(昭和二十年)に至る迄の期間に於て就中左記の地位を占め居たり即ち

 参謀本部第一課長(千九百三十一年より千九百三十二年迄)(昭和六年より昭和七年迄)

 陸軍通信学校研究部長(千九百三十二年)(昭和七年)

 関東軍憲兵司令官(千九百三十五年)(昭和十年)

 関東軍参謀長(千九百三十七年)(昭和十二年)

 近衛内閣陸軍次官(千九百三十八年五月より十二月迄)(昭和十三年五月より十二月迄)

 陸軍航空総監(千九百三十八年より千九百三十九年迄)(昭和十三年より昭和十四年迄)

 近衛内閣陸軍大臣(千九百四十年七月より千九百四十一年十二月迄)(昭和十五年七月より昭和十六年十二月迄)

 陸軍大将(千九百四十年十月)(昭和十五年十月)

 内閣総理大臣兼陸軍大臣(千九百四十一年十二月二日より千九百四十四年七月迄)(昭和十六年十二月二日より昭和十九年七月迄)尚其の間内務大臣、軍需大臣、参謀総長を兼摂せし事あり

 会議一、二、三、四、五、六、八、九、十一、十二、十三、十四、


梅津

 被告梅津は千九百二十八年(昭和三年)より千九百四十五年(昭和二十年)に至る迄の期間に於て就中左記の地位を占め居たり即ち

 陸軍省総務部長(千九百三十一年)(昭和六年)

 在支日本軍司令官(千九百三十四年)(昭和九年)

 廣田内閣、林内閣及び近衛内閣陸軍次官(千九百三十六年三月より千九百三十八年五月迄)(昭和十一年三月より昭和十三年五月迄)

 関東軍司令官並に満洲国駐剳大使(千九百三十九年より千九百四十四年迄)(昭和十四年より昭和十九年迄)

 陸軍大将(千九百四十年)(昭和十五年)

 参謀総長(千九百四十四年七月より千九百四十五年迄)(昭和十九年七月より昭和二十年迄)

(Source:国立公文書館 A08071274100)

コメント

このブログの人気の投稿

徴兵の詔(徴兵令詔書及ヒ徴兵告諭) 1872年12月28日

徴兵令詔書及び徴兵告諭(口語訳)  今回、全国募兵の件に付き、別紙の詔書の通り徴兵令が仰せ出され、その定めるところの条々、各々天皇の趣意を戴き、下々の者に至るまで遺漏なきように公布しなさい。全体として詳細は陸軍・海軍両省と打ち合わせをしなさい。この趣旨を通達する。  ただし、徴兵令および徴募期限については追って通達するべきものとする。 (別紙) 詔書の写し   私(明治天皇)が考えるに、往昔は郡県の制度により、全国の壮年の男子を募って、軍団を設置し、それによって国家を守ることは、もとより武士・農民の区別がなかった。中世以降、兵は武士に限られるようになり、兵農分離が始まって、ついに封建制度を形成するようになる。明治維新は、実に2千有余年来の一大変革であった。この際にあたり、海軍・陸軍の兵制もまた時節に従って、変更しないわけにはいかない。今日本の往昔の兵制に基づいて、海外各国の兵制を斟酌し、全国から兵を徴集する法律を定め、国家を守る基本を確立しようと思う。おまえたち、多くのあらゆる役人は手厚く、私(明治天皇)の意志を体して、広くこれを全国に説き聞かせなさい。 明治5年(壬申)11月28日  わが国古代の兵制では、国をあげて兵士とならなかったものはいなかった。有事の際は、天皇が元帥となり、青年壮年兵役に耐えられる者を募り、敵を征服すれば兵役を解き、帰郷すれば農工商人となった。もとより後世のように両刀を帯びて武士と称し、傍若無人で働かずに生活をし、甚だしい時には人を殺しても、お上が罪を問わないというようなことはなかった。  そもそも、神武天皇は珍彦を葛城の国造に任命し、以後軍団を設け衛士・防人の制度を始めて、神亀天平の時代に六府二鎮を設けて備えがなったのである。保元の乱・平治の乱以後、朝廷の軍規が緩み、軍事権は武士の手に落ち、国は封建制の時代となって、人は兵農分離とされた。さらに後世になって、朝廷の権威は失墜し、その弊害はあえていうべきものもなく甚だしいものとなった。  ところが、明治維新で諸藩が領土を朝廷に返還し、1871年(明治4)になって以前の郡県制に戻った。世襲で働かずに生活していた武士は、俸禄を減らし、刀剣を腰からはずすことを許し、士農工商の四民にようやく自由の権利を持たせようとしている。これは上下の身分差をなくし、人権を平等にしようとする方法で、とりもな...

日清修好条規 1871年09月13日

内容見直し点:口語訳中途 修好条規(口語訳、前文署名省略) 第一条 この条約締結のあとは、大日本国と大清国は弥和誼を敦うし、天地と共に窮まり無るべし。又両国に属したる邦土も、各礼を以て相待ち、すこしも侵越する事なく永久安全を得せしむべし。 第二条 両国好を通ぜし上は、必ず相関切す。若し他国より不公及び軽藐する事有る時、其知らせを為さば、何れも互に相助け、或は中に入り、程克く取扱い、友誼を敦くすべし。 第三条 両国の政事禁令各異なれば、其政事は己国自主の権に任すべし。彼此に於て何れも代謀干預して禁じたる事を、取り行わんと請い願う事を得ず。其禁令は互に相助け、各其商民に諭し、土人を誘惑し、聊違犯あるを許さず。 第四条 両国秉権大臣を差出し、其眷属随員を召具して京師に在留し、或は長く居留し、或は時々往来し、内地各処を通行する事を得べし。其入費は何れも自分より払うべし。其地面家宅を賃借して大臣等の公館と為し、並びに行李の往来及び飛脚を仕立書状を送る等の事は、何れも不都合がないように世話しなければならない。 第五条 両国の官位何れも定品有りといえども、職を授る事各同じからず。因彼此の職掌相当する者は、応接及び交通とも均く対待の礼を用ゆ。職卑き者と上官と相見るには客礼を行い、公務を辨ずるに付ては、職掌相当の官へ照会す。其上官へ転申し直達する事を得ず。又双方礼式の出会には、各官位の名帖を用う。凡両国より差出したる官員初て任所に到着せば、印証ある書付を出し見せ、仮冒なき様の防ぎをなすべし。 第六条 今後両国を往復する公文について、清国は漢文を用い、日本国は日本文を用いて漢訳文を副えることとする。あるいはただ漢文のみを用い、その記載に従うものとする。 (これ以下まだ) 第七条 両国好みを通ぜし上は、海岸の各港に於て彼此し共に場所を指定め、商民の往来貿易を許すべし。猶別に通商章程を立て、両国の商民に永遠遵守せしむべし。 第八条 両国の開港場には、彼此何れも理事官を差置き、自国商民の取締をなすべし。凡家財、産業、公事、訴訟に干係せし事件は、都て其裁判に帰し、何れも自国の律例を按して糾辨すべし。両国商民相互の訴訟には、何れも願書体を用う。理事官は先ず理解を加え、成丈け訴訟に及ばざる様にすべし。其儀能わざる時は、地方官に掛合い双方出会し公平に裁断すべし。尤盗賊欠落等の事件は、両国の地方官より...

帝国陸海軍作戦計画大綱 1945年01月20日

 帝国陸海軍作戦計画大綱(ひらがな化、一部新字体化、一部省略)  帝国陸海軍作戦計画大綱(昭和二十年一月二十日)    目 次(略)    第一 作戦方針  帝国陸海軍は機微なる世界情勢の変転に莅み重点を主敵米軍の進攻破摧に指向し随処縦深に亙り敵戦力を撃破して戦争遂行上の要域を確保し以て敵戦意を挫折し以て戦争目的の達成を図る    第二 作戦の指導大綱 一 陸海軍は戦局愈々至難なるを予期しつつ既成の戦略態勢を活用し敵の進攻を破摧し速に自主的態勢の確立に努む   右自主的態勢は今後の作戦推移を洞察し速に先つ皇土及之か防衛に緊切なる大陸要域に於て不抜の邀撃態勢を確立し敵の来攻に方りては随時之を撃破すると共に其の間状況之を許す限り反撃戦力特に精錬なる航空戦力を整備し以て積極不羈の作戦遂行に努むるを以て其の主眼とす 二 陸海軍は比島方面に来攻中の米軍主力に対し靭強なる作戦を遂行し之を撃破して極力敵戦力に痛撃を加ふると共に敵戦力の牽制抑留に努め此の間情勢の推移を洞察し之に即応して速に爾他方面に於ける作戦準備を促進す 三 陸海軍は主敵米軍の皇土要域方面に向ふ進攻特に其の優勢なる空海戦力に対し作戦準備を完整し之を撃破す   之か為比島方面より皇土南陲に来攻する敵に対し東支那海周辺に於ける作戦を主眼とし二、三月頃を目途とし同周辺要地に於ける作戦準備を速急強化す   敵の小笠原諸島来攻(硫黄島を含む)に対し極力之か防備強化に努む   又敵一部の千島方面進攻を予期し又状況に依り有力なる敵の直接本土に暴進することあるを考慮し之に対処し得るの準備に遺憾なからしむ 四 陸海軍は進攻する米軍主力に対し陸海特に航空戦力を総合発揮し敵戦力を撃破し其の進攻企図を破摧す 此の間他方面に在りては優勢なる敵空海戦力の来攻を予想しつつ主として陸上部隊を以て作戦を遂行するものとす   敵戦力の撃破は渡洋進攻の弱点を捕へ洋上に於て痛撃を加ふるを主眼とし爾後上陸せる敵に対しては補給遮断と相俟つて陸上作戦に於て其の目的を達成す 此の際火力の集団機動を重視す   尚敵機動部隊に対しては努めて不断に好機を捕捉し之を求めて漸減す 五 支那大陸方面に在りては左に準拠し主敵米軍に対する作戦を指導す (一) 支那大陸に於ける戦略態勢を速に強化し東西両正面より進攻する敵特に米軍を撃破して其の企図を破摧し皇土を中核とする大...