北支事件及宋哲元軍不法事件に就て(ひらがな化、一部新字体化、図省略)
北支事件及宋哲元軍不法事件に就て
昭和十年七月三十日
陸軍省新聞班
目次
第一 北支事件 ………………………………………… 一頁
一 概説 ……………………………………………… 一
二 北支事件の動因 ………………………………… 三
三 北支事件の重要性 ……………………………… 六
四 北支交渉の条約的根拠 ………………………… 七
五 軍の発動 ………………………………………… 一〇
六 支那側の態度並爾後の交渉 …………………… 一一
第二 宋哲元軍不法事件 ……………………………… 一二
一 概説 ……………………………………………… 一二
二 第一次張北事件 ………………………………… 一三
三 宋哲元軍の第一次熱西侵犯事件 ……………… 一四
四 第二次張北事件 ………………………………… 一六
五 宋哲元軍の第二次熱西侵犯事件 ……………… 一七
六 日支の交渉 ……………………………………… 一八
第三 最近における北支の政情 ……………………… 二一
北支事件及宋哲元軍不法事件に就て(附図参照)
第一 北支事件
一 概説
最近、北支那に於ては、停戦協定地区に根拠を有する匪賊の満洲国侵入良民の掠奪、並に親日新満を主義とし日満支の大乗的提携を標榜していた支那新聞社長の暗殺等、抗日反満的不祥事件が相継いで起った。
然るに之等の事件の背後を調査した所、一匪賊、一凶漢、一官吏の所為ではなくして、実は支那官憲が指導し援助していた事実が明瞭となった。
茲に於て、事件は単に末梢的処理を為すも殆ど何等の効果なく、其の依って来る根源を清むる所謂抜本塞源的処置を要するものであることが明瞭となり、其の根本は南京政府の対日二重政策の全面的是正にあるのであるが、取り敢えず北支に於ける是等禍根の一切を清掃することが、営に右事件の解決のみならず、満洲国の健全なる発達を促す点よりするも、喫緊焦眉の問題であるとの結論を得たのである。
然るに之等の二大事件は共に昭和八年五月の停戦協定の違犯であるのみならず、後者は、明治三十五年七月交換した天津還付に関する日清交換公文によって支那駐屯軍の有する断圧治罪権並に在天津帝国総領事の有する領事警察権の蹂躙となるのである。然し事件は主として軍特に統帥事項に関係するので、支那側との交渉は外務側と協議の上軍に於てすることとなった。
茲に於て軍は先づ支那官憲の不信を糾弾し、且此の際、支那側に於て当然執るべき処置例へば在北支抗日諸機関の撤退並に事件関係者の罷免及処分等に関し軍の初診を率直に通告した。
右通告を受けた北支当局並に南京政府は漸く事態の軽視すべからざるを悟り、之が前後処置を講ぜんとしたが、一方では、彼の常套手段である事態の軽視、処置の遷延及我が軍要求の緩和等を策したので、我が軍は更に数次に亘り儼乎たる態度を以て彼の実行を督促した。
茲に於て、支那も漸く事態の重大性を悟り、遂に六月十日に至り、我が要求全部を実行する旨正式に回答して来た。
斯くして所謂事件の善後処置は目下実施の途中であるが、我が軍に於ては、従来の此の種事件の成り行きに鑑み厳重に其の実行を監視中である。
事情右の如く我が要求は更正妥当であるに不拘、之を苛酷ならずやと考へ、或は本事件の交渉に軍が当つた事を軍の横暴、外務の屈伏若くは大使昇格問題に対する面等と考ふるむきもあつたが、斯くの如きは、事件の本質を弁へざる門外漢か或は日支の大乗的提携を思はざる人の言か、乃至は漢民族の民族性を弁へざる所謂善良なる日本人の言である。
以下、少しく事件の詳細を述ぶることとする。
二 北支事件の動因
従来、支那側が表面親日を標榜しながら裏面に於て抗日反満的策動を実施して来た事は、世人衆知の事実であつた。
此の事は、本年一月、所謂南京政府の親日政策声明後と雖も何等差異がなかつた。
北支に於ても抗日反満と目さるるものが我が軍憲の目に留つたもの丈でも、本年一月以降今日迄五十数件に上つたのであるが、中でも孫匪事件竝親日満新聞記者の暗殺事件は其の雄なるものであつた。而して事件の真相を究明するに従つて其の背後に官憲の手が動いていたことが判明したので、即ち従来の抗日反満的策動が依然として官製若くは官憲関係しているものの仕業であることが判つたのである。
以下今次事件の動因とも観らるべき孫永勤匪賊事件竝親日新聞記者暗殺事件の概要を記する事とする。
(一)孫匪事件
従来在満匪賊は日満軍の熱心不断の剿討に依つて著しく其の数を減少したが、之等の残匪が尚執拗に抗日反満的行為を継続する所以のものは、其の裏面に於て支那其の他の穩密なる支援があつたからであるが、其の証跡の堙滅は仲々巧妙であつた。
右抗日反満団の一として北支停戦協定区域根拠とし支那官憲の支援の下に長城線を越えて熱河省内に出入して所在の良民を掠奪する匪賊があつた。
今度問題となつた孫永勤の率ゆる匪賊がそれであつて、本年三、四月の交、此の匪賊は熱河省に於て日満軍の討伐に遭ひ停戦区域内の河北省の遵化県に脫出し、爾後同県官民支援の下に尚満洲国に対する策動を続けていた。
玆に於て、関東軍は停戦協定に基き一部隊を遵化地方に出勤せしめ五月二十四日之を殲滅して同月末満洲国内に引き揚げた。
然るに本事件に関し河北省主席于學忠は其の指揮下の戦区保安隊をして何等孫匪討伐等の処置を命ずることなく、却つて孫匪の熱河省よりの退却に方つては、其の退却方向を指示し、又遵化附近関東軍部隊の孫匪攻擊に方つては其の日本軍の攻撃地域外に回避すべきを命令した適確なる証拠が挙つた。
又遵化県長等が孫匪に弾薬糧秣等を供給していた事実も判明した。
又別に何応欽は従来在満匪賊に対して東北義勇軍たるの委任状等を与へていた事実も挙つていた。
(二)天津親日新聞社長暗殺事件
去る五月三日在天津、晨報社長白逾桓、國権社長胡恩傳の二支那人が天津日本租界に於て、暗殺せられた。
此等の新聞は東亜の大局に鑑み、日支両民族の大乗的提携親善を標榜して国民党の反正を促していたものであつて、殊に前者は日本軍の使用人でもあつた。
以上の如く、事件は帝国の行政権下に在る日本租界に於て行はれ、且つ我が軍の使用人を暗殺したものである。即ち、右は、日満支の親善提携を妨害するものであり、停戦協定の違犯となるのみならず、帝国総領事館の警察権を蹂躪するものである。殊に白暗殺は明治三十五年の天津還附に関する日清交換公文に明記してある。「外国軍の使用たる支那人を支那官憲が自由に処断し得さる」の軍当然の権利を蹂躪するのである。
玆に於て、我が出先官憲に於ては、銳意其の犯人及犯行経路を搜査した所、其の全貌を明にすることを得た。
右に拠れば犯罪は蔣介石を社長とする秘密機関藍衣社の社員等に依つて行はれ、而も之等は直接、北支現政権千學忠の了解支持を受け、所在の藍衣社々員、中央官憲竝之等類似の機関の密接なる協力の下に断行せられたものである事が判つたのである。
三 北支事件の重要性
以上、孫匪事件と云ひ、親日満新聞記者暗殺事件と云ひ、表面に現れた其の相それ自体は、如何にも小問題なるがの如くである。
然し事実の真相を調査し其の背後に南京政府、国民党、藍衣社、何応欽、于學忠、中央憲兵等の力が動いている事実が判明するに於ては、問題は爾く軽易ではないのみならず、事実に於ては従来の抗日反満的行為は殆んど支那官憲の策動使嗾であつて今回の二事件は単に其の現れに過ぎないのである。
是れ実に南京政府の対日欺瞞政策、二重政策の暴露であつて、帝国の企図する大乗的日支親善政策と相反するや誠に大であるのである。
中華民国が其の国民党の背景によつて革命外交を実施して以来、日支関係は常に斯くの如き変態状態に置かれて居るのであつて、満洲事変は実に其の革命外交の清算の為勃発を余儀なくせられたものと謂ひ得るものである。
然るに南京政府は何等醒むることなく陰に陽に満洲国の撹乱を策していることは右の通りである。
元来停戦協定は、日支武力の衝突防止の障壁であると共に、右見地を以てすれば、実に日支相平親善の楔子たるの作用をなすものである。
然るに此の地域に抗日反満軍を培養して日支の親善を自ら撹乱しつゝあるのである。
皇軍が之等の匪賊討伐の為に貴重なる陛下の赤子の犧牲をも顧みず之に精進する所以のものは日満議定書による日満不可分関係、共同防衛に根拠するは勿論、亦右に述ぶるが如き大乗的日支親善を念願するからであり、今次事件に直接関係ある北支に於ける抗日思想竝抗日諸機関の根本的清算を決意したのも此の念願に基くものである。
四 北支交渉の条約的根拠
次に北支事件の条約性質を検討するに
第一 孫匪事件竝に親日満新聞記者暗殺事件等は昭和八年五月の北支停戦協定を侵犯したものである。
北支停戦協定第一項の末文に「支那側ハ此ノ線(臺森―通縣―順義―賓抵ノ線)ノ内外ヲ問ハズ、一切ノ挑戦撹乱行為ヲ行ハザルモノトス」と規定せられてあるが、右は支那全土に及ぶものであつて、平津地方を中心とする支那官憲の挑戦撹乱行為に適用せらるべきは勿論であつて、孫匪事件と云ひ白、胡の暗殺事件と云ひ正しく右協定に触るヽものである。
第二 白逾桓の殺害は一九〇二年の天津還附に関する日清交換公文違犯である。
明治三十五年天津還附ニ関スル日清の交換公文の中に
「外国軍隊ニ使用セラルル清国人ニ於テ法律背戻ノ行為アリタル場合ニハ其清国人ヲ使用スル軍隊ノ指揮官ハ最モ良ク正理ニ適スト信スル所ノ判決ヲ得セシムル為メニ自ラ処罰スルトモ或ハ之ヲ清国官衙ニ引渡ストモ其隨意タルヘキ儀ハ貴政府ニ於テ御承諾相成ラサルヲ得サル儀ト存候」
とあるが、当時白は日本軍に使用せられていたものであることは、既に述べた通りであり、之れは明に右交換公文の蹂躪行為である。
× × × ×
以上の二件は其の条約違犯となるの根拠であるが、更に注意すべきは支那駐屯軍の有する哨所指揮権である。
明治三十五年天津還附に関する日清交換公文中
「交通線(註、北平、山海關間)ニ沿ヒテ設クヘキ哨所指揮官ノ裁判権 (通常之ヲ弾圧治罪権ト称シ他ノ公文ニ依リ鉄道線路、電信線、駐紮外国人及所有物品ニ対スル支那側ノ犯罪ノ搜査、逮捕、裁判、処分ノ諸権ハ外国軍ニ在ルコトヲ規定セルモノテアル) ハ鉄道線二哩ノ距離 (註、北平、天津ハ此地域内ニ在リ)ニ及フヘキ旨ヲ双方承認シタリ」
と規定せられてある。
右によれば、白暗殺事件は勿論、其の他一切の日本に対する犯罪は北京、山海関間鉄道線路の両側各二哩に亘つては、日本軍に於て、自ら搜査し逮捕し、審理し判決し処断することが出来るのである。即ち今次事件に際しても日本軍は直ちに兵力を行使して右述の弾圧治罪権を行使しても他より何等の言辞を挟まるゝ事なきものである。
五 軍の発動
右の如く、本事件は、其の根本性質が軍事協定たる停戦協定の侵犯であるばかりでなく之れが交涉解決亦軍の有する弾圧治罪権の行使範囲に在るのみならず之れによつて初めて有効適切なる成果を得べきものなるに付き陸軍に於て取扱ふを至当と認め外務当局とも完全なる意見の一致を見たる上軍の発動となつたのである。
然し実力による事態解決は北支保安の大局的見地より一時之れを差し控へ、先づ厳重なる通告を発し支那側をして彼自身に於て我が要望するものを実行せしむることヽした。
玆に於て、支那駐屯軍参謀長は五月二十九日北平大使館附武官補佐官を同行し、在北支支那側責任者である北平軍事委員分会長何応欽竝北平政務整理委員会代表者と会見し概ね左の通告及要求をなした。
(一)通告
支那官憲の実施せる抗日軍の行為は停戦協定及天津還附に関する日清交換公文を蹂躙したものであつて、今後斯かる行為が存続し、若しくは之れを予知するに於ては日本軍は自衛上必要の行動を執り平津地方に必要なる施設を行はざるべからざるに至るであらう。
(二)要求
北支に於ける此の種禍根を根絶する為め、蔣介石の欺瞞政策の放棄を必要とし、最少限右政策の実行機関である在北支諸機関の北支撤退及于學忠始め事件関係者の罷免を要求し中央軍の撤退を希望する。
六 支那側の態度竝爾後の交渉
我が軍の通告を受けた支那側は事態容易ならざることを認めて夫々善後処置に狂奔し始めたが、他面に於ては各種の原因により或は事態を故に軽視し或は帝国の態度を楽観し、又中には政府首脳者の責任回避、解決遷延、政治交渉への転移を策し、或は我が要求の緩和を図る等本交渉の前途必ずしも楽観を許さないものがあつた。殊に憲兵第三団長蒋孝元等の罷免、河北省政府の保定移転等末梢的事項の処置を以て、事件の解決となさんとしたのと、別に対内的面子上之れを自発的実施事項として口頭通告するの態度が濃厚であつたので、軍は本事件を速に解決するの要を認め、各方面と協議の上、六月六日、所要の事項を支那駐屯軍を初め関東軍其の他出先各機関に訓令した。
茲に於て、出先機関は夫々支那側と接衝したが、彼は、我が軍の儼乎たる態度と不動の決意とに驚き、六月十日午後に至り左の如く我が軍の局地的要求事項の全部を承認し且つ之れを実施すべきを通達して来た。
1 予學忠以下事件責任者の罷免
2 憲兵第三団竝軍事委員分会政治訓練処の北支撤退
3 河北省の党部撤退
4 第五十一軍の河北省外への撤退(六月二十五日迄完了)
5 中央軍二箇師団の河北省外への移駐
6 日支国交を害する秘密機関を厳重に取締り存在せしめず
7 国民政府は近く全国に対し排外排日を禁ずる命令を出す
第二 宋哲元軍事件
一 概説
内蒙事件の主要なるものは、昨昭和九年十月の第一次張北事件、本年一月の宋哲元軍の第一次熱西侵犯事件、竝本年六月の第二次張北事件及宋哲元軍の第二次熱西侵犯事件である。
第一次張北事件及第一次熱西侵犯事件は夫々其の当時事件の性質に応じ局地的に解決せられたのであるが、事件の本質的解決即ち支那中央政府及之れが流を汲む支那官憲をして本質的に親善の態度をとらしむる迄には到つていなかつた。
恰も本年六月第二次張北事件が起つた。当時、北支問題も略々解決せられんとしあるの状態であつたので、我が方に於ても、努めて穏便の態度を以て彼に臨んでいたが、彼は六月十一日及び十二日の両日に亘り又復熱河省の西域を犯し且つ我が官憲に不法射撃を加ふる等の暴逆を敢へてした。
茲に於て、我が軍は事件の根本的解決の要を認め支那当局と交渉して彼に略〻北支事件と同樣の処置をなさしめて本事件は解決を見たのである。
二 第一次張北事件
昨昭和九年十月、支那駐屯軍の幕僚及領事館員等数名は、内蒙地方の旅行を企図し、護照等を準備したる上旅行先各地出先支那官憲に予報する等万般の処置を了り、十月二十七日張家口出発多倫に向つた。
然るに、一行が張家口北方約三十五粁の部落張北の南門に到達するや、同地に駐屯していた宋軍第百三十二師の衛兵及保安隊員は、青龍刀、自動小銃等を擬して、理不尽に一行の通過を阻止した。
茲に於て、一行は懇々説明したが遂に要領を得なかつたので、領事館の一書記生は単身公安局に到り説明せんとして数歩前進した所が、件の衛兵司令は直ちに書記生を殴打し他の控兵は之れを取巻き発砲の姿勢を執り発砲せよ等と叫び、暴逆の限りを尽した。然るに此間に一行の認めた公安局宛の手紙によつて漸く支那将校が現場に来たので、一行は事なく多倫に向つて前進を継続したのであつた。
本事件は、支那側の命令が徹底しなかつたのに因る様であるが、何れにせよ護照を所持する邦人の旅行を拒否した事及帝国外交官を殴打した事は、見逃すことが出来ないので、我が軍部及外務当局は宋哲元の参謀長張維藩及外交部弁事処岳開先を招致し厳重なる抗議をなし、彼をして謝罪せしめた外、特に多倫、張家口間の交通を自由ならしむること等を要求し之を承認せしめたのである。
三 宋哲元軍の第一次熱西侵犯事件
満洲国と中華民国との国境は万里の長城の線であることは満洲国独立に伴ふ領土宣言によつて明である。
察哈爾主席兼第二十九軍長である宋哲元は予て張家口を本拠として威を四隣に振うていたが、熱河省の西辺に於ける日満両軍の警備の手簿に乗じ、昨年夏以来其の歩騎兵若干を満洲国側の熱河省豐寧縣内に進入せしめ兵力を以て大灘附近を占領し、 其の前方(東方)には多数の保衛団を出して之れに行政機関を隨行せしめ行政を施行する有様であつたので、豐寧縣内の満洲国側の主権は事実上行使不可能であつた。
仍つて、関東軍は出先機関をして数次に亘り其の撤退方を交涉した所、昨年末に至り宋哲元も其の非を悟り、是等越境侵入部隊、保衛団、行政機関等の一切を十二月三十一日限り一律に長城外に撤退する旨を誓約し、且つ我が方の寛大なる処置を懇願して来た。
茲に於て、関東軍は其の撤兵の実行を監視することとしたのであるが、本年に入るも彼は其の約束を履行しないのみならず、却つて一月十二、三日頃には騎兵部隊を長梁に、迫撃砲を有する部隊を北在溝に進入せしむると共に附近各地には保衛団を増加し、 又十五日には騎兵約一中隊は鳥泥河に進出し来り其処に在つた満洲国自衛団を襲擊して約四十名を拉致し、又別に梳肗樓にも宋哲元の一部隊が現出して来たのみならず、此の方面には近く張北方面より部隊が移動して来る等の風評が立つた。
一方宋哲元は当時北平に在つたが、其の第一線の勇敢活溌なる行動を聞き、深く之れを嘉みし賞金を与へて其の志気を鼓舞すると云ふ有様であつた。
以上の如く、宋哲元には何等の誠意を認むることが出来ない状況であつた為め、関東軍は武力を以て侵入せる宋軍を駆逐するに決した。
大灘方面満洲国領内粛正の任務を受けた在熱兵団の一部は飛行機の協力を得つゝ一月二十三日小廠に進出し次で斷木梁に向ひ前進中午前十一時三十分頃紅泥灘北側鞍部に在つた機関銃を有する優勢なる敵の射撃を受けたので、已むなく之れを攻撃して午後三時三十分頃遂に之れを南方国境外に撃攘し、関東軍は国境たる長城線上の要地を占領したのである。
本戦鬪中特務曹長及び兵各一名戦死し、大尉一、少尉一、兵四が負傷した。
斯くして支那側は一先づ沽源、獨石口の線に撤退したので、茲に本事件の善後処理に関する両軍の交渉となつた。
本件に就ては支那側は会議地を北平とし且つ会議の内容も単に紛擾現地の解決のみならず、広く熱、察国境方面全地域に亘る協定を結び度き旨希望して来た。然し我が方は事件本来の性質に鑑み広く一般問題を迄議するは本問題を迅速且つ局地的に解決する所以に非ずとなし、大灘に於て本問題のみを議することとし、結局我が方の主張通り二月二日宋哲元軍の関係の師団参謀長、竝に関係満支両国の県長を大灘に集め、会議を行ひ、支那側に事件発生の責任と非違とを認めしめ且つ将来絶対に兵を満洲国に入れざるは勿論密偵其の他を満洲国内に侵入せしめざるを誓約せしめた。
斯くして所謂宋哲元の熱河侵入事件は全く一段落を告げたが、討伐部隊は支那側従来の態度に鑑み、其の後相当期間一部の兵力を以て長城線の要地を占領せしめ厳重なる監視を行つていたが、三月前後に至つて之れを徹し其の後は国境警察隊によつて移動監視を行ふことゝした。
四 第二次張北事件
関東軍の職員数名は五月三十一日、貨物自動車に乗り多倫を出発張家口に向つたが、張家口に在る我が機関は到著予定日になつても一向其の報告に接しないので、各方面を搜査中の処、其の後一行は六月五日午後漸く張家口に到著した。茲に於て途中の事情を聴取した所、一行は張北に於て一日間支那軍隊の為め不法監禁せられていた事が判明した。即ち右一行が六月五日午後四時張北の南門に差し懸つた時同地に駐屯していた宋軍の第百三十二師の衛兵の為め再び停車せしめられた。一行は関東軍職員たるの身分証明書を示したが、支那兵は取り合はず、遂に第百三十二師司令部に連行せられ、次で軍法所内監禁室に投ぜられ荷物全部は検査せられ、更に物置部屋に押し込められた。而して監視の歩哨は相互の談話を禁じ、青龍刀、銃剣を擬する等の脅迫を加へ食事寝具を与へず、漸く翌六日の午前十一時釈放したのである。
五 宋哲元軍の第二次熱西侵犯事件
六月五日第二次張北事件が起つたことは、既述の通りであるが、軍は北支事件も無事解決せられんとしているので、大局に鑑み此の第二次張北事件に対しても努めて穏便なる態度を以て臨まんとしたのであるが、宋哲元軍は又復、我が監視の眼を逃れ熱河省西境を犯し不法射撃を敢てした。
六月十一日満洲国熱河省豐寧県の参事官は豐寧より東柵子(満洲国内であつて獨石口北方約八粁の地点)に入らんとするや、同地の東方に在つた高地から突如二、三十発の小銃射撃を受けた。そこで右参事官一行は已むなく、元来た方向に引き返し危く難を逃れたのであるが、其の後調査の結果によれば右射擊部隊は獨石口(支那領)に駐屯している宋哲元の部隊であつて兵力は十五、六名であつた事が判つた。
六月十二日、小廠(満洲国内であつて獨石口北方約十五粁の地点)に在る満洲国々境警察隊は、小廠南方約六粁齋藤山(満洲国内であつて第一次熱西侵犯事件の時之が討伐に向つた齋藤小隊長戦死の高地)附近に達した時同高地に在つた宋軍約百二、三十名より百余発の射撃を受けたので、国境警察隊は之亦引き返し危難を避けた。
元来獨石口に駐屯していた宋哲元の部隊は約二中隊であつたが、現在は其の大部は満洲国内に侵入していて、獨石口に残留しているものは極少数である。
六 日支の交涉
玆に於て、関東軍は愈〻彼の不法と増長とを確認すると共に中央部の指示に基き、爾後宋哲元軍をして絶対に察哈爾省に於て反満抗日的言動なからしむる為、六月十八日土肥原少将をして支那責任者たる宋哲元に厳重抗議せしむることゝした。
之より先き、南京政府は我が強硬なる決意に驚き、突如十八日、自発的に宋哲元の省主席を罷免した。
玆に於て、土肥原少将対察哈爾省主席代理秦德純との交涉となり、此の間幾多の経緯があつたが二十七日に至り支那側は正式に我が方に対し遺憾の意を表し且つ我が要求事項たる事件関係者謝罪及責任の罷免竝満洲国々境に近き宋哲元軍の移動竝一切の排日機関の解散等を承認実施する旨回答して来た。
× × × ×
玆に於て察哈爾問題も一応解決することなつたので、六月二十八日、梅津支那駐屯軍司令官及、有吉大使は左の声明をなし、以て今日迄我が方の採つた態度竝将来の企図に関し意の在る所を明にした。
梅津支那駐屯軍司令官声明
北支及察哈爾ニ続発セル一部支那官民ノ不法行為ニ対スル交渉ニ関シ幸ニモ支那軍憲我公明ナル要求ヲ受諾シ将ニ其ノ履行ヲ見ントシアルハ同慶ノ至リニシテ其ノ誠意ヲ認メ暫ク確約実行ノ推移ナ注視シ局面ノ好転ヲ期待セントス
抑々交渉ニ際シ我カ軍ノ要望主眼トセルハ炳乎タル停戦協定ノ条章ト儼乎タル彼我軍憲ノ誓約トニ照鑑シ之カ違犯ノ責任ヲ糺彈シ撹乱ノ禍根ヲ芟除シ、互ニ信義ヲ重ンシ和平ニ努メ以テ北支ニ於ケル事態ノ康寧ヲ期シ延テ満洲ニ対スル脅威ト日支親善ノ障碍トノ除去ニ資セントスルニ在リ苟モ徒ニ事態ヲ拡大シ若クハ妄ニ内政ニ干与セントスルカ如キハ断シテ考慮シアラサリシ所ナリトス
惟フニ日支、真ノ親善提携ハ帝国文武官民ノ齊シク希望スル所ナルモ此ノ事タル単ナル、表面的形式的辞令ノミヲ以テ到底庶幾シ得ヘキ所以ニ非スシテ這次表面化セル不祥事件ノ如キ其ノ淵源スル所深キモノアルヲ想見セシムルハ遺憾ニ堪ヘサル次第ナリ、然ルニ過日国府更メテ全支排外排日禁絶ノ布告ヲ発シタルハ叙上ノ禍根ノ除去ニ一歩ヲ進メタルモノトシテ慶スヘク其ノ一時的便法ニ止マランコトヲ冀フ、特ニ帝国ニ於テ既ニ其ノ独立ヲ承認支持セル満洲国ト共同防衛ヲ全フスヘク将又接満地域ニ於ケル治安ノ維持ニ重大ナル関心ヲ有スル日本国軍ノ立場トシテハ尠クモ同地方面ニ於テ爾今一切ニ亘リ抗日反満行為ノ絶滅セラレムコトヲ庶幾シテ已マサルナリ
右聲明ス
有吉駐支大使声明
一 這回北支及察哈爾事件ニ関シ帝国軍憲ハ停戦協定等ニ基キ支那軍憲ニ対シ公正ナル要望ヲ提出セル処支那軍憲ニ於テ該要望ヲ容レ事態好転ヲ見ツツアルハ同慶ノ至ナリ、今次支那駐屯軍司令官ノ声明ニ於テモ期待セラレアルカ如ク支那側ニ於テ此ノ上共当該方面ノ和平維持ニ努力セラレンコト希望ニ堪ヘス
二 尚日支両国々交ノ円満ヲ期センカ為メニハ単ニ地方的ニ止マラス全支ニ亘リ排日風潮ノ一掃ヲ期スルノ要アル処今日未タ該風潮絶滅ノ境ニ達セス吾人ハ此ノ機会ニ改メテ支那側ニ於テ今回発布ノ邦交敦睦令等ヲ充分ニ活用シ排日風潮ノ禁絶ニ今一段ノ努力ヲ払ハレムコトヲ切実ニ要望スルモノナリ、
第三 最近に於ける北支の政情
以上の如くにして北支に於ける諸問題は、各方面の一致協力によつて、短時日の間に克く解決することを得た。
目下、北支に於ては、南京政府が従来実施しつゝあつた一面抵抗、一面親善の対日二重政策の中の一面抵抗なる裏面工作の糸は、今次の北支諸事件の解決によつて、差当りは切断除去せられた貌である。
然し、之れと共に、支那側に在つては、対内的事情よりして北支に於ける軍政の中間統轄機関たる何応欽、黄郛は南方に逃避したので、目下商震、王克敏等が之が代理を務めあるの情況であるが、事実上は此等中間統轄機関の機能は停止の状態である。
玆に於て、 所謂政権亡者共の暗躍となり、北支に於ては今や次期中間統轄機を繞つて実力派、非実力派が入り乱れて策動している。
其の一の現れが、去る六月二十八日の北平附近白堅武の兵変である。本事件は六月二十七日夜半の出来事であつて、北平西南方約十粁の豐台殿及北平南側永定門の二箇所が同日午前一時頃約二百の匪賊の為めに襲撃せられた。
茲に於て、商震軍及萬福麟軍は直ちに出動して二十八日正午頃迄に完全に之れを鎮圧したのであるが、本事件の実相に関し北平軍委分会の調査した所によれば、右は、元呉佩孚の参謀長白堅武の指導した兵変であつて、于學忠軍の鉄甲車第六中隊が之れと共謀している事が明になつた。
× × × ×
目下支那側は北支中間統轄機関に誰を持つて来るべきかに就て考慮中なるものゝ如くであるが、我が方は元より日満支の大乗的提携を考慮実施するものなれば其の何人たるとを問はぬものであるが、又他面反満抗日を策するものがあれば其の何人たるを問はず之れを排撃するものである。
飜つて支那全般を大観するに抗日反満の策動の糸は尚支那大部の省に残存している。此の抗日の裏面工作を転じて真の親日になさしむる作業が爾後に残された重要な問題である。
之れには陸海外其他各省の一致せる施策の外我が国九千万同胞の熱烈なる支援が緊要であると信ずるものである。
(図省略)
(Source:国立公文書館 12 北支事件及宋哲元軍不法事件に就て 昭和10年7月30日 C14060827000)
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